節子の恋(4)島崎藤村「新生」リミックス

 引き続いて、岸本宛にこんな手紙も出した。三年前に岸本がフランスへ向けて発った三月二十五日が近づいていた。
 「先日はおいそがしいところを失礼いたしました。もうお仕事もお済みになりましたか。先日はまだかと思いましたのでお伺い致すのをやめにしようかと考えましたり、持って参りました歌もお仕事がまだでしたらお目に掛けないで持って帰ろうかと存じておりましたのに、お邪魔に成るようなことはなかったかしらと心配してしまいましたのよ。もしそうでしたら御免なさい。これからもそういうような場合もございましたら、そう仰ってさえ下されば、どんな我慢も致しましょう……もう二十五日も近くなって参りましたね。何という大きな相違でございましょう。汽車のひびきの聞えなくなってしまってからも、いつまでも同じところに立ちつくしたあの時のことを思いますと、夢のような心持も致します……私どもは幸福でございますね。あの頂いたルウソオの懺悔録の中に、真の幸福は述べられるものでない、ただ感ぜられる、そして述べ得られないだけそれだけよく感ぜられるというところがございますね。ほんとにそうでございますね」

 節子の通って来るのをいつも岸本は途中まで迎えに出るようになった。そして二人で墓地を通り抜けた時があった。岸本は崖から飛び降りると、
 「お前にそこが降りられるかね」
 と言って岸本が手を貸そうとしたが、節子は自分の洋傘を力に崖を降りてから岸本と顔を見合せた。
 岸本は節子を誘って墓地の中の通路を小山の方へと取り、傾斜を成した樹木の多い地勢に添うて石段を上って行った。岸本は自分の右の手を節子の左の手につなぎ合せて、日のあたった墓石の間を極く静かに歩いた。
 しかし、向うの方から歩いて来る人の影を見つけた節子は、すばやく岸本の側から離れた。
 「どうして俺は自分の姪なぞにお前のような人を見つけたろう。なぜもっと他の人にお前を見つけなかったろう」
 岸本は元来た墓地の一区域へ引返して行ってから節子にそれを言出した。節子は墓の隅にハンカチを敷いて、灰色のコートのまま腰掛けた。
 「でも、よくこんなに見つかったものですね」と節子は言った。
 「やはり、苦しんだ揚句だから見つかったんだね。さもなかったら、こんな不思議なところへは出て来なかったかも知れない」
 節子と岸本は、こうしたあいまいな言葉でのやりとりを楽しむことがあった。
 「そうそう、お前に聞いて見ようと思うことがあった」と岸本は言った。「お前からくれた手紙の中に――ほら、何もかも話せる時が来たなんて――お前は俺に書いてよこしたことが有ったろう。こんなに早くその時が来ようとは思わなかった、すくなくも二三年は待たなければ成らないかと思ったなんて――もしあの時、俺が結婚したら、お前はどうするつもりだったのかね。俺は自分でも結婚するつもりだったし、お前にも結婚を勧めるつもりだった。そのつもりで旅から帰って来た。もし俺が結婚したら――それでもお前は待ってるつもりだったのかい」
 「ですから、低気圧が起って来たんじゃありませんか」
 と節子は少し赤くなって答えた。節子には、岸本がそれに気づいていないのが不思議であった。
 「ああそうか。そうだったのか」
 と岸本は言って、古い墓石の並んだ前をあちこちと歩いた。
 「もう低気圧は起りません」
 節子は感慨の籠った調子で言い、やがて墓の隅を離れた。
 節子は既に崖を上って、傾斜の地勢を岸本と一緒に歩いていた。
 「でも、三年の間よくそうして待っていられたね」
 と岸本は歩きながら節子の方を顧みて、
 「お前の手でも悪くなかったら、そうして待ってはいられなかったかもしれない」
 「そうですね。この手が悪くなかろうものなら……私はお嫁に行かなくちゃならなかったかもしれませんよ。この手にはお礼を言わなくちゃなりませんね」
 「しかし節ちゃん、お前はそれでほんとに可いのかい――これから先、そうして独りで立って行かれるのかい」
 「そんなに信用がありませんかねえ――」
 
 それから二三日経って、節子は父の代筆で金の相談の手紙を岸本に書いたが、別に鉛筆で書きつけた歌を同封した。

「くれなゐの椿の花はおくつきに二人あゆみしみちにも散りぬ
 君もなく我が身もなくて魂二つ静かにはるのひかりのなかに
 青葉もる春のひかりはやはらかく苔むせる石のうへに落ちけり
 手をとりて静かにあゆむ石段やはるかぜゆるくおくれ毛をふく」

 その頃からの節子は顔の白いのがなるべく薄く目立たないように化粧するようになった。それは岸本の勧めを受け入れたものである。
 ある時、岸本は、
 「俺のところへは随分いろいろな女の人が訪ねて来るぜ。お前はそれでも気にならないかね」
 と冗談めかして言ってみせたが、節子は苦笑して取り合わなかった。
 「こういう心持には嫉妬はつき物なんだ。別にそんなものの起って来ないところは不思議じゃないか」
 と言うから、節子は、
 「そんな余裕がないんでしょうに……」
 と答えた。
 ある日、節子が高輪を訪ねると、祖母も久米も花見に出ていなかった。岸本は、男の子らとともに下宿へ移る計画を話した。
 「いよいよ高輪もお仕舞ですかねえ」

 節子はそのことは聞いていて、手紙にこんな歌を書いてよこしていた。岸本が三年留守にしている間、ここに節子は苦しい日々を送ったその思い出があった。
「灰色に銀糸まじれる遠方の夕立のごとき思ひ出の家
 銀もよし灰色もまたなつかしやくりひろげたる絵まきものみな」

 「椿がよく咲いていますね」
 と節子が言い、岸本は縁側から節子と一緒に降りた。
 「どうだね、お前の髪にでも挿してみたら」
 と岸本が言い、節子は手ごろな蕾を探したが、手が届かなかった。岸本は節子の身体を抱きあげて蕾をとらしてやった。
 節子は快活な、抑えきれないような笑い声をあげ、折り取った紅い椿の蕾を一寸髪にあてがっただけで、それを挿そうとはしなかった。
 節子を残して岸本は外出し、四月下旬に町に出ていた粽を買ってきて、二人の間の男の子のことを話頭に上せた。
 「たしか親夫という名だっけね。あの名は――ほら、坊さんが自分の子につけるつもりで考えておいたやつを、わざわざ譲ってくれたんだと、お前の手紙の中に書いてあったじゃないか」
 節子は、軽い胸の痛みを覚えつつ、お産のために深川のほうへ行っていた時の話をした。
 「へえ、その家では釣堀をやってるのかね。一つ鯉でも釣りに行くような顔をして、そのうちに訪ねて行って見るかナ」
 節子はこれを聞いて微笑えんだ。
 「しかし、何処でどういう人に逢うか真実に解らないものですね――」と節子が言った。「あの田舎で大変御世話になった女のお医者さまのことをパリへ書いてあげましたろう。あの人に逢いましたよ。お父さんの行く眼の病院で……あの人も今では眼科の方の助手なんでしょう」
 しばらく節子の話は途切れ、沈黙が支配した。
 「お前のお母さんは、一体どうなんだろう」
 と岸本が沈黙を破った。
 「お母さんは『あの事』を知ってるんだろうか――」
 「お母さんは知っていましょうよ」
 節子は言った。
 「輝はどうだろう」
 「姉さんも知っているかもしれませんよ。ちょうど姉さんがお産で帰って来た時は、私はこの家にいませんでしたからね。姉さんがお父さんの方へ行って聞けば、お母さんに行ってお聞きと言われるし、お母さんの方へ来て聞けば、お父さんに行ってお聞きと言われたなんて――姉さんだって不思議に思ったんでしょう。あの時分はお父さんはまだ名古屋でしたからね」
 「そんなら、お愛ちゃんは?」
 「さあ、根岸の姉さんもどうですかねえ……」
 と節子は言い淀んだ。またしばらく二人は無言のまま向い合っていた。
 そろそろ家の内は薄暗くなりかけた。岸本も節子も帰りの遅い祖母さんたちのことを案じた。
 「節ちゃん、お前も帰る支度をするがいい」
 と岸本が言った時、節子は座を起ちかけて、
 「私はもう帰りません」
 とわざと言って見せた。岸本は思わず吹きだした。
 節子は鏡台の前に立って乾いた髪をときつけながら帰り支度をしていた。何気なく岸本は節子の背後に立って、鏡に映る彼女の姿を見た。その時、節子は岸本の胸に彼女の頭を押し当てて、この家を立ち去るに忍びないような表情を鏡に映して見せた。花見帰りの人達は間もなく遠路を疲れて戻って来た。
 六月一日に、岸本は高輪の家を畳んだ。節子は祖母さんを迎えかたがた手伝いに行った。岸本は男の子二人を連れて愛宕下の下宿へ移った。
 節子は、岸本に手紙を書いた。
 「叔父さんは私の失望して通りすぎた道をこれから歩もうとしていらっしゃる。叔父さんは私と違って、きっと成功者ですよ――何にも失望することがないんですもの。この間お話をうかがって、育児などということに興味をもって来たと仰った時、ちょっと不思議のように思われましたが、男と女の違いかも知れません。私が母となってからあと、私が求めても得られなかったものを他の子供にと思い立ちました。それは子供の真の要求であろうと思ったからでございます。わたしの力は小そうございます。けれども心ばかりは決して人に劣らないつもりでございました。しかし子供をほんとうに一個の人として考えもし、取扱ってもやることが、自己を重んじさせることであろうというような考え方と、大人を全能の神のように思わせようとして催眠術をかけて置きたいという考え方と、両立しよう筈がございません。そしてその催眠術を廃するには、わたしはあまりに根深くいわゆる罪人でございましたのね。今の叔父さんは随分お骨の折れることと思います。けれども、それは一歩ごとにお互いの心が近づいて行くことなのでございますから、子供の上にもしばらくの動揺はありましょうとも、きっと心からの感謝と信頼の情とをもって、向日葵の花のように光のなかに歩むことができると信じます。そう云うものを持つことの出来る方を御羨ましくも思います……」
 節子は自己の失敗を語ることによって、男手一つで子供を育てて行こうとする岸本を慰めようとした。
 その頃、ロシヤでは社会主義革命が起こっていた。これを機に日本の学生・労働者たちの間に社会主義熱が燃え上がり、実業家や政治家は革命の機運を恐れるようになる。下宿へ移って一月あまり経つ頃に、節子は暑中見舞いをかねて例の鉛筆で手紙を書いた。
 「先日伺った時も、お髭の延びたせいばかりでなく、何だかお痩せになったようで、自分は大変済まないことをしているような気がいたします。何から何まで御一人に御心配をかけております。私もこの前伺った二三日前から少し弱っていたので、昨日は父の御供をして病院から帰る途中で歩けなくなってしまいました、尤も無理に押して出掛けたことでしたが、半分夢中で根津の家に帰り着くことができました。こんな場合につけても叔父さんのことを思い出さずにおられません、自分が我がままの言えるのは叔父さんと共にある時ばかりです。今こうして叔父さんと離れ、病身の父の面倒を見ているのも容易なことではありません。そういえば今夜は七夕です、去年の今頃はどんなに旅から帰る叔父さんを待受けたでしょう、いくら自分ばかり織女を気取ってもその頃の叔父さんは未だ牽牛ではありませんでしたね。織女を怖がっている牽牛なんてありませんね。少し身体の具合が悪くなったからもう書くのをやめますが、これを受取ってくれる頃は、あるいはちょうど去年あの漸くお目に掛って、嬉しいとも悲しいとも名のつけようのない心持ちを味わっていた頃かもしれませんね」
 節子は土曜日ごとに岸本が二人の男の子を育てている下宿へ手伝いに通った。しかし岸本は、夏の暑い間は体が大儀だろうからと言って、それを一週おきにさせた。
 七月の半ば頃に節子が来た時、岸本は節子に珠数を贈った。透明な硝子の珠を青い清楚な細紐に通したもので、女物で安く手に入ったのだ。
 節子はこの贈り物を喜んだが、あとで手紙を書いた。
 「先日の数珠はありがとうございました。大変良い物で、根津へ帰ってからも幾度となくそっと掛けて見ました。いずれ私も男持ちのいいのを探して、この返礼としたく思います。
 叔父様が時々苛々した沈黙に陥るのは私のせいでしょうか。年齢の相違、智識の相違――そういうものから来る叔父さんの不満は私にもよく分ります。気のつかないうちに私はいつの間にか堅くなっていたのかも知れませんが、言うことがあるなら何事も遠慮なく言ってください」
 アベラールとエロイーズは、聖職者と修道女の関係でありながら性的関係を結んでしまい、アベラールは政敵に襲われて男根を切り取られてしまった。別れ別れに生きた二人の往復書簡が残っている。節子がせっせと手紙を書くのは、二人の関係をこの中世の男女になぞらえるつもりでもあった。けれど節子は、岸本の男根が切り取られることを想像してぞっとしたが、その切り取っているのは想像の中では自分の父なのであった。

 節子は弟を連れて七月の末に岸本の下宿を訪ねた。ちょうど学校の暑中休暇が始まった頃で、岸本の男の子たちも一郎が来て嬉しそうだった。
 子供たちが着替えをしたので、岸本は、
 「節ちゃん、お前も着替えないかね」
 と言った。
 子供たちの目を意識して、節子は躊躇した。岸本も、
 「それもそうだね。今日は一ちゃんと一緒だね」
 と言い直した。
 節子は風呂敷包を持って岸本の居間の方へ来た。彼女は膝の上でその風呂敷包を解いて、岸本から贈った珠数の返礼を取出して見せた。
 「良いのがありましたよ」
 と言いながら節子は岸本の前、節子に贈ったのより大振りの数珠を出した。
 「どうだろう、俺に似合うだろうか」
 と岸本は笑いながら言い、やがて数珠を首に掛けてみせた。
 岸本は泉太の机の上を片づけて、その上に自分で書きためておいたものを載せ、節子に読ませた。手紙がわりに彼女に宛てて自分の胸に浮んで来たことを順序もなく書きつけたものだ。
 節子は黙って身動きもせずに読み耽っていた。
 「いそがしいいそがしいと思いながらやはりお前へ宛てて書きたい。いそがしいいそがしいと思いながらやはりお前のことを思い続ける。自分は我慢して月に二度しかお前を見ないことにしたが、今ではそれを後悔している。お前を見ない二週間は全く待ち遠しい。昨夜は非常に暑苦しかった。おちおち眠られないほどお前を思い続けた。あの高輪の縁側で、萩の葉の暗い庭に向ったところで、二人あることを楽みながら夜遅くまで互に蚊に喰われて起きていた短夜の空が、また自分を憂鬱にする。こうした夏の夜はお前を待つ心で満たされる。自分はもう一晩でもお前を思わずには眠られない……一昨日の晩はお前が二度目の母になった夢を見て、お前のお父さんから乱打されたと思ったら眼が覚めた。悲痛な夢の涙の残りがお前の縫って贈ってくれた天鵞絨の枕を濡らした……」
 こんなことも書いてあった。
 「どうだね、すっかり読んでみたかね」
 と言いながら彼が節子の背後に立って見た時は、節子は眼に一ぱい涙をためて仰ぐように顔を向けた。
 その日の午後に、岸本は節子の前に行って立って見た。彼は節子の今の境遇を思いやる心から、彼女に訊いて見た。
 「節ちゃん、お前は一人でそうしていて、ほんとに寂しかないのかい」
 「一人じゃないじゃありませんか――二人じゃありませんか」
 岸本は黒い珠数の掛った自分の胸に思わず彼女を押当てた。
 「ああ――可愛い」
 深い溜息でも吐くように、しかも極めて熱心に彼は言った。
 節子姉弟はその日の夕方に根津へ帰ってきた。
 節子は手紙を書いた。
 「私ね、嬉しくて嬉しくて仕方がないの。だって叔父さまが、可愛いって言ってくださったんですもの。あの日の晩は何度となく眼をさましてよく眠れなかったんですよ。でも一週間経って、もう一週間と思うとがっかりしてしまいます、一週間でも随分長い思いがします。早くお目に掛りとうございます」
 九月の三日は節子に取って忘れられない日であった。自分の子供のために毎年その誕生日を記念していた。
 「また風邪を引いて四日ばかり休んでおります。明日はお目にかかれませんが、明後日はきっとお伺いします。九月の三日ですものね。無理にもあがれないことはありませんけれど、一日だけ我慢しましょうね。では明後日ね」
 と節子は手紙を書いた。

(つづく)