節子の恋(10)藤村「新生」リミックス

 だが節子を案じた岸本は、『良婦の友』四月号に「樹木の言葉」を載せた。これは、棕櫚と躑躅の会話の形式をとっているが、棕櫚が岸本、躑躅が節子である。

 躑躅 単調で無変化な日が続いた。私はこの灰色な世界に耐えられなくなった。私の葉の多くは赤ちゃけた色に変ってしまった。
 棕櫚 それは私も同じことだ。長いこと私たちは生きた色もなかった。
 ・・・
 棕櫚 私はお前がもっと平穏に生きているのかと思った。そのお前のあわれな境遇にもっと静かにしているのかと思った。そんなにお前も行き詰っているのか。
 躑躅 私は生命に飢えて来た。
 ・・・
 棕櫚 親しい友よ。行き詰ったことから私たちを救い出す道は、唯一つしかないーーそれはほんとうにこの行き詰まりを自覚してかかることだ。私たちが待受けていたものも、その自覚から生れてくる春ではなかったか。
 躑躅 そうだ。お前の言う通りだ。

 節子のこの雑誌を読んで、勇気を得た。
 秋になって、また節子は岸本に手紙を書いて、待ち合わせをし、家を抜け出した。
 岸本はひどく沈みながら節子に会いに来た。岸本は、
 「弱い人間が二人そろってしまいましたね」
 などと言い、二人して川のほとりやら裏町を歩いたが、その時、岸本は、
 「節ちゃん、用はこれっきり? 俺は今いそがしい」
 節子はハッとした。
 岸本は節子のための小遣いと、節子が小包にして麻布の家まで送り届けておいた小さな袱紗包を節子の手に握らせて、自宅のほうへ帰っていった。
 節子はぼんやりと、家路をたどりながら、
 「どうしてああ急に邪険にするのだろう」
 節子は深い谷の底へ突き落されたように思った。始めがあって終わりのないものがないように、愛もその通りだろうかと思って悲しんだ。
 「叔父さんは諦めようとするつもりかしらーー」
 袱紗包の中からは、岸本の見立てらしいハンカチ二枚が出てきた。節子はその晩はそれを枕の下に敷いて寝た。
 のちに節子が知ったところでは、すでに岸本はこの頃、のちに結婚する静子に出会っていたのだった。岸本はこの年、『処女地』という女性のための雑誌を創刊しており、一年半ほど続けたが、その編集助手を務めたのが静子だった。
 飛騨出身の未亡人が上京し、手伝いとして義雄の家に住み込みで働き始めたので、節子の手が要らなくなり、節子も家を出たがったので、愛子の提案で、節子を池袋の自由学園羽仁もと子のところに住みこませるという案が出た。もと子は旧姓を松岡といい、明治六年の生まれ、明治女学校で岸本に学んだこともあった。羽仁吉一と結婚し、雑誌などを刊行したのち、大正十年にキリスト教の教えに基づく自由学園を開いたのだ。そこで、岸本が羽仁に話して了解を得、月三十円の給料で雇われることになった。節子は雑役婦のような形で住み込むことになった。
 出発の前に、節子は岸本宛に手紙を書いた。
 「叔父さん。こんなことを叔父さんに聞いて頂いて、お心を傷めては、とも思いますが、麻布のお二階の方でどうぞこれをお読みください。いつぞやおめにかかった時、あのお別れする時の叔父さんの言葉に、『用はこれっきり? 俺は今いそがしい』なんて、あんなことを伺った時は、わたしは深い谷底へでも突き落とされたように思いました。でも、私はその当座からするとずっと静かな心でこの手紙を書いています。
 今は叔父さんも、広い広い世界へと歩いていらっしゃることと思います。この私から静かに離れていらっしゃることを思います。これまで、いろいろと私のためにお心を尽くして下すったことは、そのお礼はここには書き尽せません。叔父さんも、私が一人で麻布をお訪ねした時の私の心を知って下さるでしょう。三年も待った後で、麻布のお二階にこの自分を見つけた時の私の喜びをも認めて下さるでしょう。
 それから、これは私だけのことですが、よくよく私も自分の境遇を考えて見た上で、この父の家を出ようと思います。今更、叔父さんのお側へとは申しません。たとえ一坪の土でも、それを自分の安住の場所として考えられるよくなところに、どうかして私はこの小さな自分を置きたいと思います。来月のはじめには、お勝手をする婆やが郷里の方から来てくれることになりましたし、私も安心してお祖母さんの傍を離れて行かれると思います。私のためには決してご心配なさらないで下さい。では、叔父さんーー御機嫌ようーーさようならーーさようなら」
 翌大正十二年のはじめに、岸本は脳溢血を起こしたが、大事には至らなかった。その九月には関東大震災があった。
 節子は、自由学園の生徒だった栗原俊子という女子と親しくなり、キリスト教関係の書物をよく貸してもらった。というのは、俊子の父・栗原基は、東大英文科を出て京都の第三高等学校で教授をしており、東大ではラフカディオ・ハーンに学び、キリスト教関係の著作を翻訳していたからである。羽仁もと子と栗原は友人関係にあり、それで娘が自由学園にいたのだった。
 そのうち節子は、俊子の父から、京大の学生が集まる寮で寮母をしてもらえないかと誘われ、大正十四年に京都へ移り、当初は栗原家に住み込んだ。そののち、栗原家の隣にある、三高YMCAの学生寮・洛水寮の賄婦になり、栗原家で起居し、学生たちの食事を作りに通うようになった。節子は三十二歳になっていた。
 節子はそこで、京大の学生だった、栗原の息子の佑や、のち俊子と結婚する鈴木安蔵ら、左翼の学生を知った。京都大学社会科学研究会の会員である。その十四年十一月に、京都帝大内の「軍事教練反対」の立て看板のため、数名の学生が治安維持法違反などで逮捕された。これは大学側の抗議で釈放されたが、翌大正十五年一月から、検察当局は学生らを改めて出版法違反、不敬罪などで逮捕していった。京都学連事件と呼ばれる思想弾圧事件である。
 逮捕されていない学生はなお北白川で合宿して研究と称し政治活動を続け、節子はその世話を氏、彼らの思想に共鳴していくことになる。
 昭和二年七月、芥川龍之介が自殺した。その遺稿「或る阿呆の一生」の中に、
 「しかしルッソオの懺悔録さえ英雄的な嘘に充ち満ちていた。殊に「新生」に至っては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった。が、フランソア・ヴィヨンだけは彼の心にしみ透った。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡」を発見した。」
 という一節があり、『新生』は岸本の『新生』ではないかと騒ぎになった。岸本は芥川への返事を発表したが、すでに死んでいるから分からない。それに、ルソーとヴィヨンの間に来るのだから、これはダンテの『新生』のほうではないかという声もあった。
 節子はこれを読んで、なるほど岸本だろう、と思った。姪との情事という、社会的に葬られてもおかしくないことを「懺悔」して、しかし葬られない岸本は、「老獪」である。
 昭和三年、節子は三十五歳になっていた。その頃、十歳年下の京大生・長谷川博から強く求愛された節子は、さほどの深い愛情もなく、性欲に負けて長谷川と関係してしまい、結婚するが、三・一五事件で長谷川は検挙、投獄されてしまう。長谷川の兄は宗憲という東大を出た皮膚科の医師で、金沢医大の教授を務めた。
 節子は長谷川ら投獄された仲間たちの救援活動に挺身し、自身もたびたび警察に捕まり、時には半裸でつり下げられての拷問も受けた。生計のため、京都丸太町に服のプレッシングの店を開いてせっせと働いた。
 その年十月二十二日、父・義雄が死去した。姉の輝子は夫について満洲にいたので、知らせを受けて帰国した。節子の居場所は分からなかったので、栗原宛に手紙を出した。節子はそれを聞いて上京したが、特高警察がついており、十一月四日に行われた葬儀で、特高は間違えて姉の輝子を逮捕しそうになったりした。その前日、どさくさまぎれを突くようにして、岸本はかねて交際していた静子と再婚し、岸本と結ばれるという節子の夢は完全に潰えた。

(つづく)