節子の恋(5)

 約束の日に節子は岸本を訪ねた。
 節子はウラジオストクの方から近く帰国するという報せのあった姉夫婦の噂なぞをした後で、
 「どうしてそんなに人の顔を見ていらっしゃるんです」
 と岸本に訊いた。
 岸本は火鉢の方へ節子を誘って、熱い茶を彼女に勧め、自分でも飲みながら、
 「今日はお前が来ると言うんで、久しぶりで髭を剃って待っていた――髭でも延びてる時はそうは思わないが、剃ってサッパリすると、自分ながらそう思うね。こうして独りで置くのは惜しいものだと思うね」
 節子はハンサムな岸本の顔を見てその冗談に笑った。
 「それはそうと、私たちの小さな歴史も始まってから何年になるだろう」
 「今年で六年越しじゃありませんか」
 「そうか――もう六年越しかねえ」
  彼は節子に訊いてみた。
 「節ちゃん、俺は前からお前に訊いてみたいと思っていたんだが――お前の『創作』というのは一体いつ頃から始まったんだろう。お前の方が俺よりも早いことだけは分ってる」
 「いずれ手紙にしてお目に掛けますよ」
 と節子は伏目勝ちに答えた。
 その日は岸本は細々とした仕事を一日節子に手伝って貰った。近くの町で彼は眼の悪い義雄兄のために手ごろな杖を見立てて買って来て置いたから、その杖を持って節子は根津へ帰ってきた。
 節子は帰宅して二日ほどして、岸本に手紙を書いた。
 「先日お話のあったことを書いてお目にかけます。一番最初わたしの上った頃の叔父さんはほんとにこわい方でしたよ。だって、毎日々々あんなに黙って、こわい顔ばかりしていらしったんですもの。それに泉ちゃん達のことと言えば、前にいけないと仰ったことでも、後でしてやればいいじゃないかって、叱られてしまうんですもの。どうしていいか解りませんでしたよ。ですからね、その頃はただ気遣いな、怖い方だったけれども、肩なんか揉んであげるようになってから、だんだん怖くなくなりましたよ。そればかりでなく、今まで私なんかもう本当に誰からも優しくなんてして頂いたことはありませんでしたから。家でも、根岸でも、学校でもね。私の周囲にあったものは、そうですね、こう威圧というようなものばかりだったんですもの。ですから今とはとても比べものにはなりませんけれど、あの頃でさえ他のどんな人より優しくして下さるのが嬉しかったの。今まで男の人なんかは何だか気味悪いようにばかり思って、知ろうともしませんでしたけれども、何だか少しずつ分って来るような気がしましたよ。叔父さんもわたしが最初上った頃から見ると、じりじりと疲れていらしったようでしたね。御心配や何やかやで、よく横になっていらっしたじゃありませんか。私はどうかして差し上げたいと思っても、どうすることも出来ませんでしたの。それ以前でもこれが進んで行ったらどうなるなどということは考えたこともありませんでしたから、ほんとに一ころは何もかも滅茶苦茶でしたよ。どうかすると叔父さんが憎らしくて憎らしくてね。三日ばかりそんな日の続いたことがありました。けれど急に種々なものが、今まで知らなかったものが見えてきました。それからは一方では憎みながら、一方ではやはり囚われていたんですね。時によると憎しみが余計に頭を持上げたり、時にはその反対のこともありました。それからあの母になったことを知った頃からは、両方とも余計に深いものになって行ったんですね。遠い旅にお出掛けになるなんてことをうかがった時は、不思議な位に思いましたよ。その時はもう離れられないものになっていましたから。まあどうしてそんな心持になれただろうと思いましてね。あの晩のこと覚えていらしって――ほら、元園町のお友達からお使いで、迎えの俥の来たことがありましたろう。会があったりして随分遅く一時か二時頃に帰っていらしって、いい事があるから話して聞かせるなんて仰って、わたしが参りましたら、可哀そうな娘だなあッて、堅く抱きしめて大きな溜息していらしったの。私も何だかよく分らなかったんですけれど、悲しくなって泣いちまいましたの。今でもあの晩のことを時々思い出しますよ。あの次の日かに旅のお話がありましたっけね。彼地へお立ちになる頃は、憎しみも余程少くはなっていましたが、未だそれでも残っておりました。神戸をさして行っておしまいになってからは、それが皆思いやりというようなものに変ってしまいましたのよ。そして長い間にだんだん叔父さんに見つけたものばかりが、他の人の持っていないものだと思うようなものばかりが残りましたのよ。それからはもう本当に好きになってしまいましたの。
 ――まだ書かなくちゃ成りませんけれど、お父さんがいつも直ぐそこの御座敷にばかりいらっしゃるんですもの。気が気じゃありません。次郎ちゃんも来て、悪戯ばかりして書けませんから、復この次にね」

 姉の輝子夫婦が二人の子供を連れて十月に入ってから東京に着いた。義雄と姉一家は、節子とともに、愛宕下の岸本を訪ねた。節子と姉とで鶏を料理してふるまった。
 その次、節子が岸本を訪ねると、岸本は、泉太が「お節ちゃんは僕等の第二の母さん?」と訊いたという話をした。
 「女中にそんなことを言われて、からかわれて来たらしいんだ」
 と岸本は附けたした。
 節子もこの話を聞いた時は顔色を変えた。
 「きっとあの女中でしょうよ」
 と節子は言って、無邪気な子供にそんな知恵をつけるとは余計なことをしたものだと眉をひそめた。
 しかし節子はすぐに機嫌を取り直した。
 節子は、キリストの宗教生活に入って行く心支度を始めねばならないと言い、エロイーズのような前途について話した。帰ろうとしていたところへ秋雨が降りだした。節子は雨に結構濡れてしまい、そのため手がひどく痛んで、ご飯の時にも箸が持てず、左手に匙を以て食事をした。手に油を塗って一晩休んだらいくらかよくなり、岸本に手紙を書いた。
 「身のまわりに澱んだ空気が充ちているようで、大きな声を出すこともできないように坐って、いやだいやだと思いながら今の境遇に引かれて行くのは、やはり自分が弱いからでしょうか。先刻から何時間ここに坐っておりましょう。もう薄暗くなりました――わたしはもう何物も要りません、どうぞ最後の日まで愛させて下さい……」
 手紙の端が涙で濡れていたが、節子はそのまま投函した。
 いずれは、岸本と節子のこういう関係も、知らせないわけには行かない。
 初冬になって、節子が岸本を訪れた時、岸本は、この経緯を小説として書いてしまおうかと思っている、と話した。
 節子は平静を装って、
 「でも、それを書けば……」
 世間が岸本を非難するのはもとより、社会的に葬られるかもしれない。もちろん父や一族の者も、内々に収めようと思っていたことだから怒るし、自分たちの身の上に何が持ち上がるか分からない。
 「節ちゃん、聞いてくれ」
 と岸本は居住まいを正した。
 「こんなことは、黙っているのが普通だ、それを天下の新聞紙上に公表するなど狂喜の沙汰だよ。だが、俺はね、これまで子供が三人死んだことまで書いてきた俺がね、こんなことを、あたかもなかったかのようにして別のものを書くなんてことはできやしないんだ」
 節子に、岸本の苦悩が伝わってきた。
 「……世間には、自分のことを書く作家ばかりじゃないから、なんで作家だとこんなことまで書いて公表するのかと思う人もいるだろうが、俺がこれまでやってきた方法は、懺悔することにつながっている。俺一人が恥をかいて、社会的に葬り去られても構わないが、ほかの親戚はともかく、節ちゃんが巻き込まれる。それだけが気がかりだーー」
 節子は、無理に笑顔を作って、
 「まあ、でもそうなったら、私にお嫁に来てくれなんてうるさいことを言う人もなくなって、却っていいかも知れません」
 岸本は節子の顔を眺めたまま、しばらく言葉もなかった。
 「お前のようにすぐそういう風に持って行ってしまうからいけない――俺はそう眼前のことばかりも考えてはいない」
 と岸本は言い、
 「俺は自分の子供が大きくなったら読んで貰うつもりサ。下手に隠すまいと思って来たね。親爺はこういう人間だったかと、ほんとうに自分の子供にも知って貰いたいと思うようになってきたね……」
 「そうですか…」
 だが岸本はさらに迷った。
 「結局は俺のエゴイズムかもしれないよ、ただ俺が書かずにはいられないという、それだけなんだから・・・・・」
 などとも言った。あるいは、
 「自然主義の現実暴露なんて言っても、姪と関係したなんてことを書いた者はあるまい。俺がその先鞭をつけるんだよ」
 などと、自嘲混じりに言うこともあった。
 節子は、岸本の苦悩を目の当たりにして、決心を固めた。
 「叔父さん、私は構いませんから、どうぞ懺悔をお書きください。……懺悔と言っても、私は悪いことをしているとは思ってないのだけれど、叔父さんがそう言うから…」
 と自ら勧めた。岸本は、沈痛な表情で、節子の手を握り、
 「節ちゃん、安心してくれ、一時は波乱もあるだろうが、俺も岸本捨吉だ、うまくやることは請け合うよ」
 と言い、節子の細い体を抱きしめた。
 少しして岸本は、
 「お前の家でも、祖母さんはもう行火かね」
 と節子に言って、子供の部屋の方に温めて置いた土製の行火を見に行った。それを自分の部屋まで引いて来て、北向の障子の側に置いた。
 「子供が学校から寒がって帰って来るだろうと思って、今日は行火をこしらえといた」
 と言い、寒さに弱い節子の身体をも温めさせた。
 「節ちゃん、お前の悪い手を一つ見せとくれ。来年からは、お前の手を治すことも俺の仕事の一つにしたいと思ってる」
 と岸本に言われて、節子は長いこと水いじりの出来ない手を行火に置いて見せた。皮膚病はもはや掌全体に渡っていて、神経の鋭くなった指のあたりからはどうかすると血が流れたりした。
 「ひどい手をしてるんだね」
 と岸本が言った。
 「こんなに悪くなるまで放擲して置くなんて――まあ、良い医者に診て貰うんだね」
 節子は自分でも掌を眺めていたが、やがて蒲団の中へ引き込ませた。来年の正月あたりから、病院にでも節子を通わせたい岸本が言ったので、ひどく節子は喜んだ。岸本は今までのように一週に一度の手伝いも一区切りとし、用事でもある時に来て貰うことにして、手の療治を専心に心がけさせたいという話をした。
 節子は何か思い出したように、行火にあたりながら涙ぐんだ。
 「よく私はうちのお父さんに言われるんです――愛宕下へ行って帰って来ると、まるで一日二日は腑抜けのようになってしまうなんて」
 「お前もまた面白くないなんて、寝たりなんかしちゃいけないサ」
 「なんですか姉さんが帰って来てから、余計にお父さんの調子が違って来ました。私は人間じゃないようなことを言われて……」
 「何と言われたっていいじゃないか――そんなことを気にしたところで仕方がない。そういう苦い反撥心を捨てるサ」
 と岸本は、自身の顔つきにも苦いものを噛みしめるような表情で言った。
 「そこがお前、懺悔の心じゃないか。何も修道院や尼寺まで行かなくたって、宗教というものはあるものだろう。根津の家をそのまま寺院だと観る訳には行かないものかね。俺はまあそう思うんだが、反抗したところで無駄だと思ったら、そういう反撥心を捨てて掛るんだね」
 「…そうでしょうか」
 「お前と俺とは、もうここまで来たものだ。行くところまで行くより外に仕方がないサ。こんな日蔭者のような調子で、これが遣り切れるものかね。もっと生きて出ることを考えようじゃないか――」
 子供が学校から帰って来てからは二人はもうこんな話をしなかった。節子は、帰りがけに、
 「三年も待っていられたんですもの……何時までだって私は待ちましょう……」
 と言い置いて行った。
 大正七年三月、大阪の愛子の許にいた岸本の末の女の児――君子を岸本の方で引取ることになり、愛宕下へ帰って来た。
 根津の家では、節子の母親が流行性感冒に罹ったのがもとで、どっと床に就いてしまい、だんだん重くなっていた。節子は、寒い二月の夜の三時頃に弟を連れて医者の家を叩き起しに行った。父の眼病は幸いよくなっていたが、節子は今度は母の看護のために昼夜附きりになって疲れ切った。もう三晩ばかりも碌々休まないという手紙を岸本に宛てて書いたのは、二月の十八日だった。
 「夜明でございます。今しがた祖母さんに按摩さんの方を代って頂いて、階下へ来ました。御飯掛けた少しの間にこれを書いております――」
 三月十日過ぎには、母の病気は胸膿だとされ、医者の勧めで手術をすることになり、義雄がその相談、つまり経済的援助を求めて岸本を訪ねたりした。義雄はその頃は目もよくなっていた。
 母はそれから三、四日後に、和泉橋に近い病院の方へ移った。母は駕籠に乗り、輝子と節子が俥で随いて行った。それは貧困者のための病院だったから、父義雄兄はそこへ入れることに難色を示したが、そこには岸本が懇意な博士もあり、結局母はお客様のような扱いを受けた。

(つづく)