これはまずいだろう

 小川和也の『儒学殺人事件 堀田正俊徳川綱吉』(講談社)がサントリー学芸賞(社会・風俗部門)をとったので、読んでみた。堀田は、家綱時代には老中で、家綱に継嗣がないことから、宮将軍を迎えようとした大老酒井忠清と対立、家綱の遺言で弟の綱吉が将軍になると大老となった、綱吉政権成立の功労者である。だがほどなく、江戸城内で若年寄稲葉正休に刺殺されてしまう。私が中一の時の大河ドラマ元禄太平記』にあわせて学研から出た二巻の歴史漫画にも、この事件は描かれていた。
 原因は、淀川の治水工事で、稲葉が出した見積もりより、堀田が河村瑞賢を起用して出した見積もりのほうが安かったため採用され、稲葉が堀田を恨んだからだとされている。
 これに対して小川は、生類憐れみの令などを出す綱吉に堀田が諫言したため、綱吉が堀田を煙たく思い、その意を察知して稲葉が堀田を殺したとしている。
 この説は、1936年に海音寺潮五郎が『改造』に載せた「大老堀田正俊」に書いてある。のち『悪人列伝』の「徳川綱吉」の項でもくりかえされている。前者は『海音寺潮五郎短編総集(上)』(講談社文庫)に入っている。しかるに、小川著には、海音寺のかの字も出てこない。これは、まずいのではないか。先行研究の記載不備である。まさか、小川が、海音寺の説を知らなかったとは思われない。
 小川著に対して、「朝日新聞」で書評をした原武史は「先行研究を踏まえての大胆な推理」などと書いているが、原は海音寺説であることを知っていたのか。選評は奥本大三郎が書いている。
http://www.suntory.co.jp/news/2014/12215-3.html#ogawa
 私はこれを読んでへなへなしてしまった。だいたい、現在のサントリー学芸賞は、前近代の日本史学者の選考委員がいない。これはまずいだろう。理系の論文だったら、こりゃ立派な剽窃である。
 なお、綱吉黒幕説は成り立たない。堀田が煙たいなら罷免すればいいだけのことで、将軍にそれくらいの力がないはずはない。小川は、ちと怪しげな後代の文書から、綱吉が堀田に隠居を迫り、堀田が拒否したなどという逸話を引いているが、別に隠居しなくても大老は解任できるし、現に綱吉は将軍襲封後、酒井忠清を解任しているではないか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO72089970R30C14A5MZB001/
野口武彦まで。
小谷野敦