音楽には物語がある(73)その時代を表す音楽  「中央公論」11月号

 今年の大河ドラマ紫式部が主人公で、吉高由里子紫式部柄本佑藤原道長恋物語という驚くべき展開を見せている。今年の音楽担当は冬野ユミだが、ここしばらく、大河の音楽は昔のように、富田勲とか池辺晋一郎とかおなじみの作曲家が何度も担当するということがなくなり、作曲家の起用は一度きりという風になってきた。(来年はジョン・グラムが「麒麟が来る」以来二度目の起用になる)

 平安時代を扱うのは、源平合戦の時代を別にすれば「風と雲と虹と」(1976)に次いで二度目だが、平将門を主役にしたこれは東国での合戦が中心で、音楽は山本直純だった。その前年、南條範夫原作の「元禄太平記」が大河ドラマになった。五代将軍綱吉の代に側用人から大老格にまで出世した柳沢吉保石坂浩二が演じ、江守徹大石内蔵助が副主役だったのだが、結局は「忠臣蔵」ものになってしまった。だがその主題曲(湯浅譲二)が、現代音楽風ながら、いかにも元禄時代と思わせるものだったのは、何か先駆的作品があるのかどうか知らないが見事なもので、のちの「八代将軍吉宗」(1995)や「元禄繚乱」(1999)の池辺晋一郎の主題曲に影響していると思う。

 これに対して今回の大河は、ピアノのゆったりとしたクラシック風の音楽で、特に平安王朝絵巻を思わせるものはなかった。平安時代を想起させるには、琴を使えばいいのだろうし、そういう安易さを避けたという面もあるのだろう。

 ところで藤原道長は今のところ、長期政権を壟断した悪辣な権力者ではなく、いい為政者として描かれているが、谷崎潤一郎道長が好きだったようで、最初の作品の戯曲「誕生」で、道長に長女・彰子が生まれた時のことを描いており、これはのちに一条天皇中宮となり、紫式部が仕える上東門院である。のちに『源氏物語』を現代語訳する谷崎だが、どうも「女作家」である紫式部をあまりよく思っておらず、『栄花物語』を愛読していて、紫式部パトロンとしての道長のほうが好きだったんじゃないかと私は考えている。今回の道長の、むしろ姉詮子に先導されて権力者になるあたりは、永井路子の小説『この世をば』を参考にしていると思った。

 藤原道長といえば、その全盛期に「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という和歌を詠んでいるが、関白にはなっておらず「内覧」宣旨を受けただけだが、この地位に上ったのは甥の伊周との争いに勝ったからで、伊周は若いし、花山院に矢を射かける事件があり、まさかこれを道長の捏造とか冤罪とか言う人はおらず、政治が特段悪いものだったとも言われていない。

 何より世界的な名作文学『源氏物語』を紫式部が書くに当たっての重要なパトロンだったわけで、それを考えると特に悪い政治家ではないのである。今では、紫式部に『源氏物語』を書かせたのは道長ではないかというのが定説に近く、ドラマもそのように描いている。

 近代になって、文学者は時の為政者とは対立するものだという感覚が一般化して今日に至っているが、シェイクスピア宮内卿やついには国王主宰の劇団の座つき作者として、「マクベス」なんか露骨にジェイムズ1世に媚びているし、前近代の文学者が為政者をパトロンにしているのは普通のことだったのだ。

 ところで時代が近いので、1976年の「風と雲と虹と」とどうしても比較してしまうのだが、あちらは山本直純が作曲した坂東の民謡めいたものが歌われていて、私は結構あの大河の音楽全般が好きであった。これはいかんともしがたいものがある。

小谷野敦