節子の恋(9)

 だが、それから二年した大正十一年の三月半ば、節子は禁を破って岸本に手紙を書いた。
 「その後のご無沙汰をお許しください。あれからもはや長い月日がたちますもの。相変わらずお仕事の方においそがしいことと思います。私もよく~でなければ、こんな手紙はあげないつもりでしたが、どうにもこの頃は行き詰ってしまいました。まことに済みませんがこの土曜の晩の八時頃に池の端までお出をねがいたく、七軒町の停車場のあたりにて待っていて下さるよう、くれ~”もお願いいたします。こんな手紙をあげて、気持ちを悪くなさらないで下さい。この私の境涯をかあいそうとおぼしめして下さいー何もお目もじの上」
 こう書いてポストに投函した。
 当日、節子は着古したコートに申しわけばかりの風呂敷包を持って出かけた。忍び足で、灯火も少ない町を通り抜けて、電車通りの明るいところへ出た。
 岸本は思いがけない方角から歩いてきた。節子はすぐ見つけて、岸本の方でもこちらを探し歩いていたことを知った。買い物の人の出さかる頃で、かなり人通りも多い。節子は往来の人の目につかないような町の片隅にたたずんでいて、近づいて来る岸本を待ち受けた。
 「節ちゃんー」
 それきり岸本は物も言わないで、節子の前に立った。一年半も会わずにいた二人は静かに顔を見合わせて、互いに無量の思いに打たれた。
 「お祖母さんもお変わりはありませんか」
 岸本の口からはこんな言葉しか出てこなかった。
 節子はそこにある空き家を背にして、いくらかでも暗い方へと身を寄せ、岸本と差し向かいになるような位置に立った。驚き、喜び、人目を忍ぶ思い、そうした種々の心持が一緒になって、互いの顔に映る楽しい灯影に入り乱れた。節子は何から話していいか分からなかったが、足元に深い下水の溝があることに気づかなかった。少しずつ体を動かしながら、相手の方にばかり気を取られて、その溝の中へ足を踏み入れた。岸本が慌てて助け出そうとした時は、節子の体は既に溝に落ちていた。
 物音に驚いた近所の店の人たちが顔を出した。幸い下水は乾いていたから、腐った溝板を踏み外しただけですみ、着物も汚れず、怪我もしなかった。節子は深い溝から身を起こして、コートについた土を払いながら、岸本の傍へ立った。
 「あぶない」
 と岸本は慰め励ますように言って、
 「歩きながら話しましょう。歩いてさえいれば、誰も何とも思やしません」
 優しく言ってくれる言葉に力を得て、節子と岸本は電車通りを不忍池の方へ歩いた。建物がまばらになり、池のほとりに来ると、節子は一時前のきまりの悪かった失策を忘れ、楽しい思い出の多い二年前の自分に帰った。
 「あの時分には一人で外へも出られませんでしたよ。二郎ちゃんでも連れなければ・・・・」
 岸本は、
 「節ちゃんもそれほど辛抱したらたくさんでしょう。どうです、これから俺と一緒に飯倉のほうへ行くことにしては」
 節子が立ち止まって、言葉を失っていると、
 「これから一緒に行って、二人して結婚ということを考えようじゃないか」
 「ええ」
 この簡単な答えに岸本も驚いた。
 「叔父さん、これからすぐにですか」
 岸本は、お父さんももう長いことはないだろう、そうしたら節ちゃんも自由の身だ、と言ったことを思い出した。節子にも、父が死ねばという思いはあったが、父の死を願う罪悪の恐ろしさに、それを避けて通っていた。だから、「でも、あのお父さんはまだなか~死にそうにありませんよ」などと矛先をかわす返事をした。
 初夏になり、節子は家出をして岸本のところへ行くことにし、岸本に日取りの手紙を書き、家を出た。
 節子が麻布飯倉片町へ着いた頃は、そこいらは暗かった。
 「節ちゃんが来たよ」
 という声は、もう中学生になった泉太だ。手伝いのお婆さんが来て、岸本も二階から降りてきた。
 『新生』が出て、泉太はもう事情を知っている。
 「よくこの家が分かったね」
 何気なく岸本は言って、節子を二階へ案内した。節子には初めて見るこの家の岸本の部屋があった。
 「よくここが分かりましたね。道が暗いから心配しましたよ」
 日の暮れる頃に、彼は二度も三度も通りへ出てみたという。
 泉太が上がってきたが、細かいことは置いておいて、賑やかでありさえすれば楽しいらしかった。お婆さんがお茶を持って上がってきた。
 泉太は、
 「節子さん、一郎さんはどうしてる?」
 などと無邪気に訊いた。そんなわけで、岸本と立ち入った話もできなかったが、夜が更けていき、抜け出してきた家ではどんな騒ぎになっているだろうという不安で、岸本と節子は顔を見合わせた。
 こうして一夜がたった。
 「宮永町ではどうしているだろう?」
 と岸本が言った。
 「きっと父は渋谷の伯父さんのところへ相談にでも行っているでしょうよ」
 節子が軽く微笑して答えると、もう夫であり妻であるかのような雰囲気になった。
 そこへ、梯子段の下から婆やさんが呼んだ。
 「岸本さん、お客様でございます。渋谷の伯父さんという方がお見えでございます」
 それを聞いて、岸本は不意を打たれて顔色を変えた。するうちに、伯父はもうつかつかと梯子段を上ってきた。
 節子はただまごまごしていた。伯父はそれを尻目に、
 「節子が来ているね」
 そう言いながら岸本の方へ行った。節子は次の部屋へ下がった。伯父と岸本の話が始まった。一晩でも節子を泊めてしまったことが岸本の弱みになっているようだった。
 「よくよく節子も行き詰ってしまったからでしょう」
 と岸本が言うと、
 「いや、そこだ、ああしていたら、行き詰まるのが当たり前だよ」
 と伯父が言った。
 「お前たちは、先へ行って一緒になろうというようなことを考えてるんじゃないか」
 伯父がそう言った。
 「しかし、兄さん」
 と岸本が言う。
 「女の人が自分の家を黙ってでてくるなんて、よくよくの場合ですぜ。僕としても、それを救わずにはいられないじゃありませんか。今日の進退に窮まって、この僕の懐へ飛び込んでくるような人を……」
 「だから、そこをよく言って聞かせてだな。……そういう場合には、来たらすぐに帰るように勧めるのが本当なんだ……」
 こういうことになるのは分かり切っていたのに……。節子は隣の部屋で会話を聞いていて思った。
 「どれ、節子にも少し話してみよう」
 と伯父が立ち上がってこちらへ来た。
 「節ちゃん、伯父さんに煙草盆でもあげたらいいでしょう」
 岸本が声をかけた。座った伯父はしきりに煙管を吸った。
 「何かお前も考えがあるなら、聞こう」
 不断は情け深く思いやりもある伯父が、その時の節子にはただ恐ろしかった。自分は岸本と結婚するつもりだとは、その場では言いだせなかった。節子は伯父の前にかしこまって、何も言えずに頭をさげているばかりだった。汗のような涙がとめどなく膝の上に落ちた。
 伯父は節子を連れて帰ろうとした。節子もそれを決意するほかしかたがなかった。岸本は節子のところへ来て、
 「節ちゃんは伯父さんについて家の方へ帰ってください」
 と言い、節子も軽くうなずいた。
 「それでは、俺はこれから節子を連れて渋谷へ帰る。渋谷には義雄も来て待っている」
 と伯父は言った。岸本も階下まで見送りに来たが、顔には失望の色がありありと浮かんでいた。
 伯父に連れられて、節子は麻布から渋谷まで歩いた。伯父の家には、愛子とその夫のほか、父もいて帰りを待ちわびていた。
 「いや、ようやく俺も役目を済ました」
 と伯父と父とで一緒になって言った。
 「行って聞いてみたところが、これというはっきりした考えがあるわけでもないんだーーただ、泣いてばかりいるんだーーまるでなっていない」
 節子は顔も上げられなかった。父は苦笑していた。
 伯父の勧めで、その晩は父はいったん身一つで帰ることになったが、
 「ほんとに、どいつもこいつも碌なものはありゃしない」
 などと言っていた。
 実家へ帰った節子は、身のおきどころもなかった。「家を逃げ出したくせに」という視線を感じた。

(つづく)