竹田出雲二代(第一回)

序言
 死去した橋本治には『浄瑠璃を読もう』(新潮社)という著作がある。その中で、「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」の三大名作とされる浄瑠璃は、いずれも竹田出雲、並木千柳(のち宗輔)、三好松洛という「三人の劇作家」によって書かれた、とある。だが「竹田出雲」は、「菅原」では初代、「千本桜」と「忠臣蔵」では二代目であり、別人であるというのが現在の定説である。私は橋本がこの稿を『考える人』に連載中、この間違いに気づき、編集者に伝言を頼んだことがあったが、単行本になってもその箇所は直っていなかった。伝言が伝わらなかったのだと考えたいが、晩年の橋本には、いくつかおかしなところがあった。これはその誤りを正すため、小説の形式を借りて、竹田出雲二代を表そうとしたものである。


 享保九年(一七二四)三月二十一日、大坂は大火に見舞われた。橘通三丁目(現・大阪市西区南堀江)の金屋治兵衛の祖母妙知尼宅より出火したため、妙知焼けと呼ばれ、大坂史上でも例を見ない大火となった。船場一帯が焼けた上、火は北に向かって淀屋橋、堂島、曽根崎を焼き、さらに東へ回って天満一帯を焼いた。翌二十二日には火は島之内から、道頓堀川を越えて千日前に及んだ。
 道頓堀の南側は芝居と人形浄瑠璃の小屋が立ち並んでいた。浄瑠璃では竹本座と豊竹座、歌舞伎芝居では中の芝居・角の芝居・角丸の芝居、からくり芝居の竹田の芝居が立ち並んでいたが、みな焼けた。
 (なんてえ、ことや)
 焼け跡を歩いているのは、竹田出雲、竹本座の座主である。年は五十代半ばである。竹本座の座付き作者・近松門左衛門を押し立て、自らも浄瑠璃を書いてやってきた。この一月には近松の「関八州繋馬」を上演していた。
  京都町奉行所の与力を務めた神沢杜口の随筆『翁草』には、竹田出雲の前身は講釈師だったと書かれているが、今日この説を採用する者はない。
 その近松も今年七十二歳で病がちである。今回の火災はどうやら免れたが、精神的な傷手が大きいようだ。
 焼け残った家に退避している近松を、出雲は見舞うところだ。
 「ごめん」
 と声をかけると中へ通され、どうやら今まで寝ていたらしい近松が起き上がったばかりという様子で出雲を迎えた。顔には疲れの色が見える。
 「私ゃあ、『関八州』で書き納めかもしれまへんな」
 などと言うから、出雲は、いえぜひこんな大火から竹本座も再起したという意味合いで新しいお作を、と言う。だが出雲自身も、近松はこれぎり、という予感はしていた。
 「ああそうや、太夫元さん」
 近松が言う。
 「私の名前は、一代限りにしておくれ」
 つまり、二代目近松門左衛門は作らないでくれということである。浄瑠璃作者の地位が上がったのは近松によってであり、
 「こないなこと、私が言うのもおこがましいんやが…」
 あえて言った、ということらしい。出雲は承知の旨伝える。
 出雲の本家は竹田近江掾といい、竹田の芝居でからくり芝居をしている。出雲は初代近江の次男、二代近江の弟で、出雲の長男・清英がその養子となっている。ガマの油売りの口上にも「わが国にも人形の細工師、あまたありといえども、京都にては守随(しゅずい)、 大阪表にては 竹田縫殿助、近江大掾藤原朝臣」と言っている。出雲の次男は清定といい、のち二代出雲となる。三男の平助清宗が、四代近江と三代出雲を兼ねている。
 「作者が育ちますればよろしいのですが・・・」
 出雲が口を濁すように言うのは、近松の死を含意してしまうからである。
 「いや、あなたもたいがいいい作者におなりや」
 と近松。出雲は前年に松田和吉との合作で「大塔宮曦鎧」を書いて作者としてデビューしている。和吉はのちの文耕堂である。出雲は十年近く、近松に師事して研鑽に励んできたのだ。息子の清定も、作者になる気満々であった。
 浄瑠璃という語り物は、太夫が語り三味線が音楽をつける。中世以来のものもあるが、近松が「出世景清」を書いたあとが現代の浄瑠璃で、それ以前のものは「古浄瑠璃」と呼ばれる。全部で五段の時代ものが中心で、近松が書いた「心中天網島」などの世話浄瑠璃は三段、人気はあったがあくまで添え物の立場である。近松や豊竹座の紀海音の心中もの浄瑠璃がはやったため、心中が増えた。幕府ではこれを「相対死」と呼んで罪とし、心中ものの上演を禁じた。吉宗将軍の時代のことである。
 竹本座の創立者は、竹本義太夫浄瑠璃語りで、近松とともに近世浄瑠璃を完成させたと言われる人物である。
 近松最大の当たり作は「国性爺合戦」、堂々たる時代ものである。当時の観客は、日本を東アジアの一部として考える視野を持っていたのかもしれない。「なむきゃらちょんのふとらやあやあ」という、「千手千眼大悲心経」を漢語でいったかけ声が大はやりした。
 竹本座と鎬を削る間柄だった豊竹座でも、立作者として近松に拮抗した紀海音が、自宅も焼けて、六十二歳で引退し、以後は俳諧狂歌に生きることになった。豊竹座は、元禄十六年に、竹本座の竹本采女が独立し、豊竹若太夫を名のって始めた人形操り芝居である。人形遣いの辰松八郎兵衛が相座元になっていた。若太夫が独立したのはわずか二十三歳の時であった。
 火事のあとの復興は早く、竹本座も仮小屋を建てて、七月には出雲自身の作「諸葛孔明鼎軍談」も上演した。「三国志」に取材した大胆な作であった。これには、近松が推奨の序文を書いてくれた。
 「竹田出雲少掾千前(出雲の号・千前軒)、予が浄瑠璃作文を深信じ。心を付て工夫を凝し。品々はなやかにめづらかなる趣向を編。予に添削口伝を受。蟠龍の時を待つこと十年余。今度。諸葛孔明鼎軍談。出雲掾一人の心腹より出る一字一点よが添削琢磨の筆を加えず。善哉。迫譜(せりふ)。わたりもぢり。およぎ等。文字の活亡(いきしに)。悉予が秘する所にかなひ。瓶に心水を移すがごとし。故(かかるゆへ)節にかけて口にあまらず。たらぬことなく。操の小間あかず。国姓爺に肩ならぶるとの評判。又楽しみにあらずや。ここに至つて、浄瑠璃作者竹田出雲と題せんに誰か非なりと云はん。

 その近松門左衛門は、十一月二十二日、没した。中年を過ぎてから浄瑠璃作者として多くの著名作品を残した人だった。竹本座では、出雲作の「右大将鎌倉実記」を上演していた時期だった。
 出雲は、近松亡きあとの作者の体制を整えなければならない。自分と、一番頼りになるのは和吉の文耕堂であろう。
 穂積以貫は、当時三十歳ほど、京都の伊東東涯に師事する古義学派の儒学者だが、近松の心酔者で、のち『難波土産』に「虚実皮膜の論」を近松の言葉として書いたことで知られる。竹本座への出入りも繁く、出雲のところへ題材「大友真鳥」を持ち込んできた。これは古浄瑠璃で、文武天皇時代に謀叛を起こした九州探題である。高村兼道、助八の兄弟がその企みを打ち破るという架空の物語だが、真鳥はキリシタン大名大友宗麟をモデルとしている。
 翌年九月「大内裏大友真鳥」として上演された。だがその頃、頼みとしていた文耕堂が、京都へ行って亀屋座という歌舞伎芝居の作者になってしまった。
 八代将軍吉宗享保の改革で奢侈を禁じたので、歌舞伎や江戸の浄瑠璃は弾圧を受けたが、大坂の浄瑠璃だけは、禁裏の保護もあり、弾圧を免れた。