竹田出雲二代(第二回)

 享保十一年(一七二六)、出雲の妻が死んでいる。出雲にとってはつらい時期だった。その年は出雲は「伊勢平氏年々鑑」を書いて九月に舞台に載せている。翌年四月には「小野炭焼・深草瓮師・七小町」という変わった趣向のものを書いて上演した。草紙洗小町、通小町など小町ものの多くをないまぜにしたもので、普通は小町ものでは大伴黒主が天下を狙う悪人になるのだが、ここでは八雲王子を悪人にし、黒主はそれを妨げようとする善玉とした。出雲は概して平安時代以前の古い世界を描くことが多く、いかなる当時の芝居も浄瑠璃も、徳川時代を描くことは禁じられていたため、「忠臣蔵」のように同時代の事件でも「太平記」世界に移すとか、江戸を鎌倉時代に変えるとかしたので、出雲が特殊なわけではないが、「忠臣蔵」や「近江源氏先陣館」のような、実際は徳川時代のことがらを過去にことよせて書くこと自体少なかったのは、座元としての配慮ゆえということもあったか。
 八月には出雲作「三荘太夫五人嬢(さんしょうだゆうごにんむすめ)」が上演された。説経節の「さんせう太夫」をもとに、三荘太夫の五人の息子を娘に変え、安寿と対王の父岩城判官の御家横領を狙う弟を悪玉に、三荘大夫が途中で改心したり、対王の身代わりとなる若者が登場したりと自由に描きなおしたもので、かなりの当たりをとった。
 今日から見れば驚くべきことだが、当時は著作権の概念がなく、浄瑠璃で当たった作があればすぐ歌舞伎に取り入れられた。この作も同年のうちに京都の佐野川万菊座などで歌舞伎に組まれ、翌年には大阪でも歌舞伎にされている。
 実際の人間が演じる歌舞伎は、女形という制約はあったが、次第にそれも洗練を見せ、浄瑠璃の人気を越えつつあった。享保十一年、豊竹座では、西沢一風、並木宗助らの合作による「北条時頼記(じらいき)」が当たり、十か月の続演という盛況を見せていた。
 そのころ京都で歌舞伎を書いていた、長谷川千四という男が、竹本座へやってきた。文耕堂が見込んで推薦したものだという。奈良の寺の出身で、千四は俳号だという。享保十三(一七二八)年五月に、出雲と千四の合作で「加賀国篠原合戦」を上演した。木曽義仲に、斎藤別当実盛の話をないまぜ、フィクションを交えたものだ。出雲の単独作に比べると、時代の新しさが感じられた。
 十四年二月にも千四との合作で「尼御台由井浜出」を上演したが、これは由井正雪ものだから、同時代の事件を題材にしている。慎重な出雲は渋ったが、千四の熱意に押し切られた形になった。
 八月には、やはり千四との合作で「眉間尺象貢」を上演した。これは中国の取替え子説話に取材し、伝説の刀匠干将・莫耶夫婦とその息子眉間尺を描き、主従・親子・夫婦の苦衷を描いたものである。だが、これは当らなかった。
 その九月十九日、かねて病んでいた兄の二代竹田近江が八十一歳で死去した。あとは、養子となっている出雲の次男が三代目近江を継ぐことになったが、まだ三十代の息子の後見として、当分竹田近江芝居のほうへ移る、と出雲は言い出した。
 太夫竹本政太夫人形遣いの吉田文三郎に、長谷川千四、息子の小出雲らが、困惑した顔つきになった。
 「どれくらいでおます」
 「まあ、四、五年といったとこやろな」
 「作者が足りますか」
 「そうやな」
 まだ小出雲は表へ出せる技量ではない。出雲は、文耕堂に帰ってもらうことを考え、すでに交渉に入っていた。幸い、文耕堂は戻ってくれ、享保十五年二月に千四との合作「三浦大輔紅梅たずな(革勺)」で竹本座に復帰した。
 出雲とか近江とかいうのは、むろん国名で、出雲掾は律令制度における国司の判官(三番目の官)だが、徳川時代には、菓子や浄瑠璃などの職人にこの掾号を名誉として朝廷から与えることがあった。近江や出雲は、その名義である。
 しかし浄瑠璃作者は職人ではなく、からくり人形を作成することのほうが「掾号」の由来であり、出雲がからくり芝居を大切にするのはそのせいもある。
 文耕堂と千四の二人は、出雲不在の享保十六(一七三一)年に「鬼一法眼三略巻」、十七年九月に「壇浦兜軍記」を書いて大当たりした。ところがこのあと、竹本大和太夫人形遣いの吉田文三郎、長谷川千四の三人による脱退・独立計画が持ち上がった。大和太夫は政太夫と並ぶ義太夫語りだが、政太夫のほうが切り語りを任されるなど重用されることに不満を抱き、これに文三郎と千四が乗ったのである。しかし一座の人形遣いの長老の吉田三郎兵衛が息子の文三郎を説得したため、独立は沙汰やみになった。
 しかし十八年(一七三三)三月十二日には大和太夫が、四月二十日には長谷川千四が四十四歳で死んでしまった。独立計画の挫折による自害などの類であろうことはきわめてありそうなことだ。四月八日からは、文耕堂が単独で書いた「車還合戦桜」が上演され、藝歴の長い竹本和泉太夫が、大和太夫の代わりに入座している。だが六月三十日、近くの竹田の芝居から火が出て、竹本座は類焼してしまう。これも、出雲の手腕で手配りよく再建され、七月には近松の「重井筒容鏡」で再建興行を打っている。
 これを機会に、出雲は竹本座へ戻ることにした。享保十九年二月には、文耕堂作の「応神天皇八白幡」の上演に際して、政太夫は二代目義太夫を襲名した。出雲は十月に「蘆屋道満大内鑑」という平安時代ものを書いて作者に復帰した。これは平安時代陰陽師安倍晴明が、父・安倍保名と狐の精の間の子だという古浄瑠璃「しのだづま」を典拠とし、悪人だった芦屋道満を善人に書き換えた作品で、「葛の葉子別れ」で知られ、翌年には歌舞伎化され、今日まで人気作となっている。この時、人形を三人で遣う方式が確立された。
 「やはり、親方あっての竹本座や」
 と、座では出雲を改めて尊敬するのであった。
 「しかし、親方」
 息子の小出雲が言う。
 「これ、どないしても安倍晴明の話でっしゃろ。なんで外題が『芦屋道満』なんですやろ」
 「ほらな、お前、ちょっとしただましや」
 「だまし?」
 「そや、客は外題見て何にゃろなあ、思うて観に来るわ、すると実は安倍晴明の話やったというわけや。近松はんが『碁盤太平記』でな、あれも外題だけやと何のことやら分からんやろ、そこを楽しむねや」
 「ははあ」