竹田出雲二代(第六回)

 延享五年(一七四八)七月十二日、桃園天皇の即位により寛延改元され、その八月十四日から、竹本座で「仮名手本忠臣蔵」が幕を開けた。始めは大当たりというほどでもなく、その長さに辟易する客もあったようだが、次第に人気が上向いてきた。
 だがその九月に、事件が起こった。九段目で人形を操っていた吉田文三郎が、語りの竹本此太夫に、人形の動きに語りを合わせてくれ、と注文をつけたが、此太夫が嫌がり、二人が衝突して、座元の出雲の調停に任された。出雲は、人気絶頂の文三郎を下ろすことができず、此太夫を休ませて、豊竹座から迎えた竹本大隅を代わりとした。これを不満として、此太夫は、島太夫、百合太夫、友太夫と連袂して退座、ライヴァルの豊竹座へ移籍した。豊竹座から代わって竹本座へ、千賀太夫長門太夫、上総太夫が竹本座に入った。「忠臣蔵騒動」と呼ばれるこの事件で、竹本座の客足には鈍りが出た。
 それでも「忠臣蔵」の人気は高く、十二月には大坂の嵐座で上演され、嵐三十郎が由良之助と勘平を演じた。翌寛延二年二月には江戸の森田座で上演され、山本京四郎が由良之助、五月からは市村座坂東彦三郎が由良之助、六月半ばから残る中村座澤村長十郎が由良之助で、江戸三座がそろって上演することになった。
 当時は著作権の概念がないから、浄瑠璃と歌舞伎の当たり狂言は、このように他座で断りもなく上演されるのであった。そのせいでもあるまいが、「忠臣蔵」は一年は続演せず、寛延二年四月からは、出雲・松洛・千柳の「粟島譜嫁入雛形」を掛けている。これは謡曲「富士太鼓」の流れをくむ富士浅間ものの一つで、享保年間に並木宗輔が豊竹座で書いた「莠伶人吾妻雛形(ふたばれいじんあづまのひながた)」の書き換えであった。七月からは、出雲・松洛・千柳の新作「双蝶蝶曲輪日記」の上演が始まる。「夏祭浪花鑑」に続く男の侠気を描いたもので、相撲とり濡髪の長五郎、捕手の南与兵衛のからみあいが眼目で、翌年歌舞伎で上演され、今もよく上演される。その上演中の七月二十四日、三味線方の長老の、初代鶴沢友次郎が死去した。
 出雲は五十八歳になっており、座の経営に専念するため一時作者から離れ、千柳と松洛二人で「源平布引滝」を書いて、十一月に上演し、上々の当たりをとった。翌寛延三年は旧作の上演が続いたが、千柳が古巣の豊竹座に戻りたいと言い出したため、出雲、松洛は止めたが、意思は固く、ついに最後の置き土産として、千柳・松洛作で「文武世継梅」源頼信・頼親を十一月に上演し、千柳は豊竹座へ戻って宗輔に名を戻した。代わって作者部屋に乗り込んできたのが、人形遣いの吉田文三郎で、吉田冠子と名のって作者に名を連ね、寛延四年二月には、吉田冠子・三好松洛作「恋女房染分手綱」を上演すると、大当たりとなり、八カ月の続演となった。初めて作者に名を連ねて松洛を越えて筆頭作者となるなど、文三郎の才気と我儘勝手さが目につき、千柳が竹本座を離れたのも文三郎が鬱陶しかったからだと分かる。
 その大当たり続演のさなかの六月二十日、将軍職を息子の家重に譲って大御所となっていた八代将軍吉宗が死去した。九月七日には、豊竹座へ移ったばかりの並木宗輔が五十七歳で死んでしまった。竹本座では十月から、「役行者大峰桜」を出したが、ここに作者として加わったのが二十七歳になる近松半二である。近松門左衛門に親炙し、「虚実皮膜」の論を『浪花土産』に書いた儒者・穂積以貫の息子で、本名を成章という。義太夫好きのあまり父のつてで竹本座に入り、私淑する近松の名をもらって近松半二と名のり、のち竹本座の最後の栄光の日々をもたらす浄瑠璃作者になる。「役行者」は、壬申の乱を扱ったもので、天智天皇の死後、その皇子を名のる悪人の大友の皇子が、天智の弟の清見原皇子に打ち負かされる話を、いろいろ家臣の者の浄瑠璃的な逸話で彩ったものである。立作者が竹田外記と名のった出雲で、ほかに竹田文四である。この文四というのは何者か分からない。ほかに松洛、冠子が加わる。半二は序段を書いただけだが、作中には千島之助、初日という恋人同士が、忠義のために自害する場面があり、半二はのちに自作『妹背山婦女貞訓』でこの趣向を繰り返している。その上演中の十月二十七日、吉宗の死や前年の桃園院の死を契機として宝暦と改元された。十二月には豊竹座で、並木宗輔の遺作となった「一谷嫩軍記」が上演され当たりをとった。
  招かれて、初日に出雲と松洛はこれを観に行った。一の谷の合戦が出てくると知った出雲は、
 (あっ)
 と思った。ここでは熊谷次郎直実が平家の公達・敦盛を討つ。観ていると、案の定、それは直実の子供を身替りにしたものだった。松洛が、ちらりと出雲の顔を見たから、出雲もうなずいて見せた。
 子供の身替りは、父の初代出雲が得意とした、浄瑠璃にはよくある趣向だったが、二代出雲はこれを嫌った。千柳の宗輔は、出雲のもとを離れて、思いのまま翼をはばたかせ、子供の身替り劇を残して旅だったのだ。
 「十六年はひと昔」
 という熊谷の述懐を聴いて、出雲はひたすらに泣いた。
 (何が十六年だ、お主は五年しかいなかったやないか)
 という涙である。松洛も同じことを思ってか泣いていた。実に「三大名作」は、並木千柳が竹本座にわずか五年いた間に作られたのであった。 
 宝暦二年五月には新作「世話言漢楚軍談(せわことばかんそぐんだん)」を上演した。作者は、竹田外記を名のった出雲、冠子、半二、松洛、中村閨二である。この十月には、京都の北側芝居で、上方で最も人気のある女形となった中村富十郎が「百千鳥娘道成寺」を踊っている。竹本座では、十一月には同じ顔ぶれの作「伊達錦五十四郡」が上演されたが、出雲としてはつくづく、千柳の力の大きかったことを思った。吉田文三郎はいよいよ野心をふくらませ、竹本座から自立したい気勢を見せ、出雲はこれを押さえていた。この年、竹田の一族で死んだ女性がいることが墓誌で確認されているが、出雲の後妻ではないかとされている。
 宝暦三年(一七五三)七月二十一日、竹田小出雲が死んで、のちの三代出雲清宣が三代目小出雲となった。おそらく小出雲はのち竹本座座元の前名であり、出雲の息子が小出雲を名のっていたのが、少年の年ごろで死んでしまい、出雲の弟が三代小出雲になったのではないかとされているが、本当はどうなのか分からない。
 五月五日からは新作「愛護稚名歌勝鬨」を上演した。出雲は竹田外記を名乗って筆頭作者となり、ほかに冠子、閨助、半二、松洛、中邑阿契となっている。これは説経節「愛護若」を中心にしているが、その筋はほとんどなくなり、平将門を討った俵藤太と、征東将軍として途中まで向かった藤原忠文が、藤太と平貞盛が将門を討ったために恩賞に与れず、怨霊となった話をもとに、藤太の子・藤原千晴と、忠文の孫・古曽部蔵人の意趣を背景に、政治を壟断する高階景連を討つまで、複雑な筋が展開する作品である。