竹田出雲二代(第五回)

 まさに竹本座の黄金時代が訪れた。この機を逃さず、出雲ら三人は「仮名手本忠臣蔵」の製作に取り掛かった。ほぼ五十年前に起きた、赤穂の浅野内匠頭による高家吉良上野介への江戸城内での刃傷と切腹大石内蔵助に率いられた四十七人の浪人による吉良家討ち入りは、日本中の話題となり、幕府は四十七士に切腹を申し付けたが、次の将軍となった家宣は浪士びいきだったし、多くの武士が四十七士を武士の鑑と称えた。
 徳川時代には、関ヶ原合戦以後の同時代の出来事を劇化・小説化することは禁じられていたが、「世界」を変えることで見逃されていた。赤穂事件は、事件直後からそのようにして劇化されていた。はじめは吾妻三八による歌舞伎化「鬼鹿毛無佐志鐙」で、大石は大岸宮内とされ、小栗判官の世界に移された。大坂篠塚庄松座でのことで、豊竹座の紀海音は「鬼鹿毛武蔵鐙」と同じ外題でこれを書き直して上演されている。
 『太平記』の高師直、塩谷判官を最初に用いたのは、宝永五年(一七〇八)京都の亀屋座で上演された歌舞伎「福引閏正月」だとされるが、近松門左衛門はそれより先の宝永三年に、「兼好法師物見車」を書いて初演されている。これは『太平記』の、師直が塩谷判官を討つ話で、その発端は塩谷の妻に懸想した師直が、兼好法師に恋文を代筆させたというところからこの題になっている。しかるに近松はその四年後にその続編として、「碁盤太平記」を書き、塩谷の浪人たちを大星由良之介がたばねて師直の屋敷を襲撃してこれを討つ話としている。なお「兼好法師物見車」では、塩谷の家老は八幡六郎となっており、のち大星と改名する。赤穂浪士の討ち入りは大坂・京都でも話題だったが、幕府として同時代の出来事を脚色するのはご法度だったから、このような形にして、もし咎めを受けても「兼好法師物見車」だけは助かるようにしたと言われる。
 ほかにも、浄瑠璃・歌舞伎の赤穂浪士ものは多いが、大石内蔵助を大岸宮内とするもの、大星由良之介とするものがあり、小栗・横山の世界にするもの、師直・塩谷の世界にするものがあり、塩谷の妻の名を顔世とするものがあった。豊竹座の「忠臣金短冊」は、小栗・横山の世界で、大石は大岸由良之助とする混成形式であった。
 赤穂浪士ものは、浅野内匠頭の七回忌、十四回忌などにブームになっていたが、五十年後が近づいてまたあちこちで上演され、延享三年(一七四六)七月十八日、大坂の中の芝居の市山座で、吾妻三八作の「大矢数四十七本」が上演され、座元の市山助五郎が大岸宮内を演じたといい、延享四年には京都の中村粂太郎座で、澤村宗十郎が次作自演した「大矢数四十七本」が上演されたという。
 『歌舞伎年表』は、明治期に伊原敏郎(青々園)が編纂したものだが、そこに「大矢数四十七本」について、「この狂言を更に竹本座の人形に移して、「仮名手本忠臣蔵」となせしなり」と書いてある。しかし「大矢数四十七本」の台本は残っておらず、伊原が何を根拠にこう書いたのか分からない。渡辺保はこれによってか、「仮名手本忠臣蔵」にオリジナリティ―がないかのごとくに書いているが、疑わしい。
 「仮名手本」のほうの主人公といえるのは、むしろ早野勘平とお軽であろうが、そのモデルとなったのは萱野三平とされている。萱野は浅野家の家臣で、内匠頭の刃傷を早駕篭で赤穂へ知らせた一人だったが、浪人後、郷里の摂津国萱野村へ帰っていて、父から大島家への仕官を命じられて仕え、大島家が吉良家と関係が深かったため板挟みとなって苦しみ、切腹して果てた人物である。
 これをモデルとした早野勘平は、豊竹座の「忠臣金短冊」に登場している。小栗の家を浪人した勘平は、妻・歌木とともに敵の横山を討とうとして失敗し、妻が討たれるが自分は逃れる。さらに大岸(大星)に近づくが疑われて力弥に刺され、苦しい息の下から横山家の絵図面を大岸に渡し、大岸は連判状に血判を押させて、勘平は死んでいく。
 「大矢数四十七本」に「仮名手本」の勘平があったかなかったかは分からない。だが、あったとしたらそのことがどこかに記されているはずで、やはり「仮名手本」の勘平の物語は、オリジナルではあるまいか。
 もう一人、勘平の恋人お軽の兄・寺岡平右衛門がいる。これは史実の寺坂吉右衛門がモデルである。寺坂は足軽身分で、討ち入りには参加したが、吉良を討ったあと、公儀へ届け出るためほかの浪士たちと離れ、そのために切腹組から外れることになり、命存らえて、この「仮名手本忠臣蔵」初演の数年前まで生きていた。
 寺岡平右衛門は、岡平として「碁盤太平記」に登場する。彼は師直方に奉公して情報を探るが、そこから大星方へ送り込まれ、力弥に怪しまれて斬られる。そこで大星に初めて素性を打ち明け、碁盤に石を置いて師直方の軍備を教えて死んでいく。これが「仮名手本忠臣蔵」ではお軽の兄として登場する。
 赤穂浪士の物語は、判官の切腹、城明け渡しまでと、討ち入りの間を何でつなぐか、が成否の鍵を握った。この間をつないだのが、お軽勘平の物語である。そしてこれを考えたのは、並木千柳であろう。
 二代出雲、松洛を前にして、千柳が語る。
 「判官刃傷の時、小姓の早野勘平は腰元のお軽とあいびきをしておりやした。そのため塩谷家を追放されて、山崎街道沿いのお軽の実家に婿入りしておりやす。せやけど塩谷の討ち入りには参加したい。お軽の父親の百姓・與市兵衛は祇園の茶屋にお軽の身を売って五十両の金を作りやす。勘平は浪人の一人・千崎弥五郎・・・これは神崎与五郎ことでんな、これに再会して、仇討の資金を調達するから、仲間に入れてくれるよう話します」
 出雲と松洛は、うんうん、と聞いている。
 「ところは山崎街道、五十両の金を懐に家路を急ぐ与市兵衛の前に現れたのは山賊一人、これ、実は塩谷の家老だった斧九太夫の息子の定九郎でやす」
 「あ、大野九郎兵衛やな」
 出雲が言う。史実において、大石の一味に加わらなかった不忠者として知られるのが大野九郎兵衛で、赤穂の開城後は行方知れずになっている。その息子を、あろうことか山賊にしてしまうのである。
 「与市兵衛を殺して五十両入った財布を奪ったところへ、猟師になった勘平が猪を追ってやってきま。猪のつもりで撃った弾は定九郎に当りま。暗闇をやってきた勘平は、手さぐりで、人の体に触り、驚いて薬はないかと懐中を探りますのや。すると出てきたのが五十両の入った財布。これがあれば浪士の仲間入りができると、勘平は死骸をそのまま、家へ帰ってきますのや」
  出雲、松洛は頷いて聞いている。浄瑠璃にはありがちな展開だ。
 「与市兵衛の家ではその妻おかやとお軽がおります。そこへ、お軽を売った店の女主人と番頭がやってきて、お軽を早う引き渡すよう談判しております。おかやは、与市兵衛がまだ帰らないので待ってくれと言っております。そこへ番頭が、これと同じ縞の財布に五十両入れて渡した、と財布を見せますが、それを見た勘平がぎょっとします。あれこれやりとりのあと、勘平は、途中で与市兵衛に会ったと言い、店の主人らはお軽を駕篭に乗せて連れて行ってしまいます」
 出雲と松洛が、一様に首を傾げた。やや不自然だと思ったからだが、浄瑠璃ではこの程度の不自然はよくある。それでもそのたびに気にしてはいる。
 「お軽が行ってしまったあと、村人数人が、与市兵衛の死骸をかつぎこんできます。おかやはびっくり仰天しますが、そこへ浪士のうち、千崎と原郷右衛門がやってきます。おかやは、勘平に対して、いかに元武家じゃとて、舅が死んだのにちっとも動揺していない、己れが殺したのじゃろ、と詰め寄ります。浪人のうち、一人は怒りだします」
 出雲が、ちょっと首をひねった。
 「そこで勘平が、人々の目を盗んでいきなり腹に刀を突きたてる」
 出雲と松洛が、ははあ、という風に少しのけぞった。
 「それから長台詞で、猪と思って撃ったのが舅だった、と話します。その間に、浪人の一人が与市兵衛の死骸を検めて、これは刀傷や、と言います。そういえばここへ来る途中定九郎が死んでいた、というところから、与市兵衛を殺したんは定九郎で、勘平が撃ったのも定九郎だと分かり、勘平はいまわの際に、浪士たちの血判状に血判を押してこと切れる」
 「ははあ」
 と出雲がうなり、
 「いいでんな、それで、お軽はどうなります」
 「それが次の段、祇園一力の茶屋の段で出てまいります」
 「あ、なるほど、そこで大星の遊蕩となるわけですな」
 「さよう。大星は敵方を欺くため祇園・一力の茶屋で遊蕩に耽っております。敵方に寝返った斧九太夫ーこれが大野九郎兵衛ですなーが、大星を試すためにご主君の命日だというのに蛸を食わせ、大星はいやいやながら食うという趣向です」
 「えげつないもんですな」
 「これはあとで意趣返しがあります。食べ酔うて寝てしもうたふりの大星のところへ三人の浪士が来て性根を確かめようとしますが、大星は寝ていて答えず、三人が呆れて帰ってしまうが、足軽の寺岡平右衛門だけは残ります。これは、討ち入りに参加させてもらいたいのと、妹のお軽に会うためです」
 「あ、寺坂吉右衛門(史実の)の妹がお軽いうことなんやな」
 と松洛が口を入れ、千柳は、さようでおます、と言って先を続ける。
 「そこへ、大星の息子・力弥がやってまいります」
 これまでの「赤穂浪士」ものでも、大石内蔵助の息子で討ち入りに最年少で参加した主税は、大星の息子・力弥としてたびたび登場しており、名前は一貫している。祇園の茶屋では、力弥の色恋が描かれたこともある。
 「力弥の合図で寝たふりをしていた大星が起き上がり、こっそり力弥から文を受け取ります。それを縁側へ出て読んでいると、片側の高い座敷で、酒で盛り潰されて寝ていたお軽が、恋文を読んでいるのだと思い、手鏡に写したものをこっそり読み取ります」
 また、出雲と松洛が首をかしげたが、千柳は、あとで説明しますという目まぜをした。
 「ところが、お軽と大星の目が合ってしまい、大星は梯子を持ってきてお軽を高い部屋から下ろし、ぐじゃぐじゃと話をして、大星が惚れた、見受けしょう、と言います。大星が行ってしまうとお軽は・・・・」
 「ちょっと待った」
 出雲が声をかけた。
 「お軽は父と勘平の死んだのは知らん言うことでっか」
 「そうです。そこが肝どすさかい。さてお軽は喜んで、家に手紙を書こうとします。そこへ入れ替えに戻ってきたのが平右衛門で、お軽と出くわす。けど父と勘平が死んだのは言えない。お軽は平右衛門に、請け出されたと喜びを伝えます。それが大星にだと聞いて、ああ本心放埓、主君の仇を討つ気はないのか、と平右衛門が嗟嘆すると、お軽が、盗み読んだ文の話をして、あるぞえ、と言う。詳しく聞いた平右衛門、大星がお軽を身請けして殺す気でいるのが分かり、お軽を自らの手で切ろうとする。そこで、親与市兵衛と勘平が死んだことを初めて話し、言い含められてお軽も覚悟をすると、奥から大星が出てきて、両人とも心底見えた、と平右衛門に義挙に参加する許しを与え、床下に潜んでいた九太夫を、お軽の手を借りて刺し殺します」
 語る千柳も興奮していたが、聞いていた出雲と松洛も手に汗握ってしまった。山崎での勘平の切腹にもやもやしていたものが、ここでぴったり一つにまとまるのを感じたからだ。大石の遊蕩は何度も描かれているが、これほど鮮やかにふくらませたのは知らない。
 「ちょっと待ってください、これで六段目なんですか」
 と出雲が声をあげた。浄瑠璃は普通五段で完結するが、これではまだまだ完結しない。
 千柳は、
 「そうです、今回は五段で終わらせないつもりです。七段、いや九段になるか」
 赤穂事件ものの集大成として絶後の傑作ができるのだ、ということは、作者たちの了解事になっていた。さらにこの後は、史実の上で浅野内匠頭を後ろから抱き留めた梶川与惣兵衛を「加古川本蔵」として主人公とし、その娘と大星力弥が許嫁だったという話があり、さらに浪士たちに加担した天野屋利平も入れることになっている。段数は、外題の文字数と同じく奇数にすることにして、九段ないしは十一段ということで、出雲、松洛があとを続けることになった。
 結局、第八が「道行旅路の花聟」として景事、第九が、梶川与惣兵衛をモデルとする加古川本蔵の娘が大星力弥の許嫁だという設定から、由良之助が出てきて本蔵が腹を切る「山科閑居」、第十が、天野屋利兵衛をモデルとする天川屋義平が、師直の手下らに屈しない男伊達ぶりを描く「天川屋」、第十一が最後の討ち入りの段ということで、出雲、松洛が手分けして書いた。