竹田出雲二代(第四回)

 翌寛保三年(一七四三)四月には、出雲の単独作として「入鹿大臣皇都諍(いるかだいじんみやこのあらそい)」が上演された。『日本書紀』に題材をとり、独裁者・蘇我入鹿を倒すために中大兄皇子が活躍する話で、入鹿の妹の花橘姫が皇子に恋し、兄を殺すよう恋人から言われるという筋で、のちの近松半二「妹背山婦女貞訓」の先行作となるものである。
 寛保四年(一七四四)は、二月に延享と改元されたが、三月に、松洛・小出雲作の「児源氏道中軍記」を上演最中に、播磨少掾が病気で途中休演し、七月二十五日、五十四歳で不帰の客となった。十一月にその追善興行が行われたが、竹本座は大きな危機に見舞われたのだ。
 並木宗輔は、宗助とも書き、青年時代は備後三原の臨済宗成就寺で修行僧をしていたという。豊竹座にいた田中千柳という作者の弟子だったらしい。豊竹座で立作者をしていたが、寛保二年に豊竹座を退いて歌舞伎作者となっていた。出雲はそれを口説いて、作者として竹本座に入れたのである。
 翌年二月、宗輔は並木千柳と名を変え、千柳、小出雲、小川半平合作で「軍法富士見西行」を書下ろし、板に載せた。木曽義仲西行の逸話を綴り合せたもので、人形遣いとして竹本座の中核にあった吉田文三郎が西行を遣ったという。
 七月には、千柳・松洛・小出雲の合作による「夏祭浪花鑑」が上演され、評判を呼んですぐに歌舞伎化され、現在でも歌舞伎の人気演目となっている。小出雲も松洛も、千柳の才能には眼をみはった。
 九月の末、将軍吉宗は嫡男の家重に将軍職を譲り、大御所となった。
 翌延享三年(一七四六)一月には、「楠昔噺」が初演されたが、これも千柳、小出雲、松洛の合作で、千柳が先導し、『太平記』から楠木正成をとりあげ、幕府方の宇都宮公綱との戦いを脚色し、万里小路藤房と八尾別当顕幸の娘・折鶴姫の悲恋をからめ、顕幸の家臣の老夫婦を出して昔話「桃太郎」にからめ、三段目が「昔噺どんぶりこ」と通称された。
 出雲は病がちで臥せっていたが、そのあと回復して、小出雲、千柳、松洛とともに「楠昔噺」の当った祝いとして天満の川筋に船を浮かべ、太夫人形遣い、三味線などみなで酒宴を催した。
 「次の狂言は何にするかや」
 と小出雲が言うと、松洛が、
 「この次は、かねてから天満宮の一代記の構想を練ってきたので、それに願いま」
 と言い、その筋立てを話した。みなそれでいいと一決し、松洛は二段、三段、四段と続けて親子の別れ場を作りたいと言い、出雲も面白がって、その場で籤を引いて場割を決めることになった。その結果、二段目の道明寺の段が松洛、三段目の桜丸切腹の段が千柳、四段目寺子屋の段が出雲と決まった、という逸話がある。
 「菅原伝授手習鑑」である。それまでの菅公もの浄瑠璃を、近松門左衛門の「天神記」を含めて下敷きとし、大きく広げたものだ。しかしこの逸話が事実かどうかは疑わしい。出雲得意の子供の身替りを書いているからだ。
 「やっぱりや」
 小出雲のつぶやきを、松洛が聞きとがめて、
 「何です?」
 と問い返した。聞いていた千柳が、
 「子供の身替りでっしゃろ」
 と言った。
 松洛は、「ああ」と納得いったようで、
 「ボンは子供の身替り嫌いでしたな」
 と言った。しかしそれが出雲の得意な筋立てなのである。千柳は、
 「わたしかて嫌いです。だから親方がおらん時は使てへん」
 と言い、
 「せやけどせっかくの親方のご恢復なんやから、小出雲さんもまあこらえて」
 「もちろん、こらえるけどな」
 しかし、八月に上演された「菅原伝授手習鑑」は大当たりとなった。特に「寺子屋」と称される子供の身替りの段が評判がよく、
 「ボン、世間は身替りの趣向、好きそうでんな」
 と松洛に言われて、小出雲は腐らざるをえなかった。
 「菅原」は続演され、その間十月には京都の浅尾元五郎座で歌舞伎化された。竹本座での上演は翌年三月まで続いたが、出雲はその間に再び病の床に就いてしまった。
 翌延享四年(一七四七)三月十七日、人形遣いの長老で、文三郎の父である吉田三郎兵衛が死去した。病床にある出雲は葬儀に出席することもできなかった。
 五月の末、出雲はいよいよ弱り、おむら、小出雲らが枕元に詰めきりになったが、六月四日、死去した。生玉の青蓮寺に葬られた。
 竹本座にとって、出雲の死はすでに織り込み済みで、小出雲が二代出雲となり座元となった。ところが、かねて座の実力者をもって任じていた人形遣いの吉田文三郎は、父三郎兵衛も死んだこととて自儘な振る舞いが見かねるほとになり、二代出雲はついに暇を出した。
 だが文三郎は近くで独自に芝居興行をしようとし、幕内からのとりなしもあって、いったんは竹本座に戻った。
そんな騒動をへて、八月には千柳、松洛、出雲作の「傾城枕軍談」が上演された。これは近松の「形成島原蛙合戦」を下敷きにした島原の乱もので、これに真柴久吉という権力者に、元の主君の小田春永の孫を擁した七草四郎が挑戦するという太閤記ものが加わっていた。しかし島原の乱を思わせるものはなく、七草四郎がのち名を島勘左衛門と変えるのが、石田三成の側近・島左近の弟なので、関ヶ原ものの趣向もあった。島勘左衛門が馬に乗ったのを文三郎が出遣いし、そのまま塀を飛び越えるという趣向もあったが、これは当らなかった。何の話だか観客にもよく分からなかったのだろう。竹本座混乱のあおりを食ったともいえる。
 二代出雲は、松洛、千柳とともに次の浄瑠璃の作成に取り掛かった。九郎判官義経が、腰越で兄頼朝に拒絶されてから、奥州平泉で討たれるまでの空白期間を描いたもので、滅びた平家の新中納言知盛、正嫡維盛が生きていたことにして、知盛が正体を見あらわされて碇を体に巻き付けて入水する「渡海屋」、維盛とその奥方、息子を守って釣瓶鮓屋のいがみの権太が改心する「鮓屋」、義経の忠臣佐藤忠信が、静御前を伴って旅をする間、静御前が持つ初音の鼓が、親狐の皮でできているため忠信に化けた子狐が忠信とすり替わり、正体がばれるが、義経が鼓を与える狐忠信の物語などを織り込み、「義経千本桜」と外題を付けた。浄瑠璃や歌舞伎の外題は、当時、三、五、七文字と奇数にすることになっていた。
 「ボン、どないだす、子供の身替り」
 「うーん」
 主な書き手である千柳に訊かれて、二代出雲は、首をひねった。
 「権太の息子が連れてかれるんやから、これは最後首切られるちゅうことやな」
 「はい。けどそこまで描かんちゅうことで」
 「こう、おとうはんの身替り好きから、ちょっと離れた、いうところかいな」
 「さようでおます」
 「ええんやないか」
 先代出雲も、身替りの趣向が古くさいという認識はあったが、観客にはやはりこれを喜ぶ者もあって、そうそう捨てられなかったのである。「義経千本桜」は当たり狂言となった。