凍雲篩雪(六月)

 『文學界』の「新人小説月評」は、昨年後半期を阿部公彦福永信が担当し、半年ごとのベスト5では、二人とも私の「ヌエのいた家」をトップにあげた。だが受賞は小野正嗣であった。そして小野の作品の『文學界』での書評で阿部はこれを賞賛し、ついで『ヌエのいた家』の書評を六月号に載せた。実はこれは、刊行がやや延期されたためフライング書評になったのだが、ヌエつまり父親ががんの母親に言った「死んじまえ」という台詞を、なぜか語り手が言ったことにされていて、二度読んだはずなのになんで間違えるのか。さらに全体として、小野の作品より評価が低い。つまり阿部は、芥川賞が決まると態度を変えたわけで、以前も陣野俊史が、『読書人』の文藝時評で、伊藤たかみ芥川賞をとった際、その受賞作をとりあげなかったことを詫びるという醜態があったが、そうやって芥川賞選考委員に媚びながらでないと、今や文藝雑誌の文藝評論家はやっていけないのでろうか。また阿部は冒頭で、どこかで私のことを書こうとしたら編集者から「やめておけ」と言われた、などと書き、私が「面倒な人間」であるとか、不寛容だとか書いているのだが、作家であれ何であれ、反論したら面倒な人間扱いするというのはおかしな話だ。阿部は芥川賞決定直後に私がツイッターなどで発した選考委員批判には、みな驚かされただろうと言い、だがそれと作品とは別だ、とまるで選考委員を批判してはいけないみたいなことを言っている。批判は『読書人』の栗原裕一郎との対談でも、『本の雑誌』五月号の「芥川賞卒業宣言」でも書いたので、何か私が間違っていると言うのであれば、阿部はそれらに対して反論してから、私が不寛容だとか何だとか言うべきである。
 私が公正な人間であることをなぜか同じ『文學界』に載った日比嘉高の文章が明らかにしてくれる。日比は、日本近代文学の世界で伝染病みたいにはやっているポスコロに則ってか、「越境文学」などと言って、リービ英雄楊逸のように外国人が日本語で小説を書く現象をとりあげているのだが、その中で、芥川賞史上最もひどい文章で受賞した楊逸の作品への宮本輝の、日本語になっていないという選評を引用して、縄張り意識だと非難がましく書いているのだが、外国人なんだから下手な日本語でも寛容になれとでも言うのであろうか。私は前回も今回も、選考委員としての宮本輝を批判したし、前回の時のツイッターでは宮本の出身大学までバカにしてしまい、これは反省しており、宮本氏にお詫び申し上げたいのだが、楊逸に関しては宮本の選評はまるっきり正しいのである。