先日、江藤淳に関する鈴木孝夫の記述を読んだついでに、鈴木と田中克彦の対談本『言語学が輝いていた時代』をのぞいてみた。田中は左翼、鈴木は保守派とみられているが、田中がかねてチョムスキーを批判しているのは有名だが、鈴木もチョムスキーに批判的で、だがその理由というのが、チョムスキーでは「言語学が終わってしまう」からだという。
なるほどなあと感心したのだが、考えてみれば学問というのは、終わらせることが目的である。大坂城を建設する時に、いつまでも作っていたいなどとは普通考えない。新幹線を作るのだって、あとで色々改造するにしても、まずは作り終えるのが目的である。
学問というのも、実は本来、終わらせることが目的のはずで、そして実際終りつつあるのだが、いつの間にか、終わらせるのが目的だということを忘れて、永遠に続くかのように錯覚してしまったのだ。つまり「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」であって、本来は三年で卒業する高校生活を、いつまでもしていたい、という夢と同じようなものを、学者たちは抱いているのである。
藝術、文藝などは、これに対して、終わらせることは目的にはなっていない。ある作品は終わらせるが、さて次に何を作るか、ということがある。
政治にしても、実は時には何もしなくてもいいことがある。かえって、何かしなければいけないと思って改革をして失敗したりする。
学問は、終わるためにあるのである。
(小谷野敦)