ヨコタ村上孝之は、私の先輩に当たる。同僚でもあった。しかし今では、絶縁状態であり、犬猿の仲である。その理由を説明しよう。
 ヨコタ村上孝之は、もと村上孝之だった。年齢は私より三つ上、大学院で五つ先輩で、つまり私が入学した時は、博士課程の五年目になっていた。背は私と同じくらいだが、宮本亜門のような顔で、女たらしだという噂だった。私が入学して一年で、大阪大学へロシヤ語教師として赴任したのだが、後で聞いたところでは、阪大のトロツキストのロシヤ語教授(藤本和貴夫)が「酒の飲めるおもしろい奴はいないか」と訊いてきて推薦されたという。これはまあ冗談半分としても、酒癖の悪い人であることは、後に分かる。語学の才能があり、ロシヤ語、英語その他いくつかの言語を自在に操っていた。赴任する前に、後にミス大阪になったという、自分より背の高い女性と結婚し、「今までつきあった女の子全部と取り替えてもいい」と言っていたそうだ。しかし、村上が米国へ留学中に離婚した。
 私が村上について初めて強い印象を持ったのは、入学の年、佐伯順子さんの論文が研究室の雑誌の巻頭に載り、合評会で村上がこれを批評した時で、彼は、同時に刊行された佐伯さんの著書『遊女の文化史』と併せて、これを徹底的に批判した。それは決してイデオロギー的な批判ではなかったが、後で佐伯さんが村上と話したところによると、村上はマルクス主義者だったので厳しくなったというのだが、それはちと違う。この批判は、当時の『比較文学研究』に、村上による佐伯さんの本の書評として載っている。だから佐伯さんの本は、まるで私が初めて批判したかのように思っている人がいるが、そうではないのである。翌年六月の学会の懇親会へ行ったら、佐伯さんのいない席で、川本助教授が村上に、「あの書評は良かった」と言っていたのも私は聞いている。それどころか、当時米国へ留学したがっていた佐伯さんは、インディアナ大学スミエ・ジョーンズという女性教授に本をあげて運動していたのだが、ジョーンズ教授は、はっきり私に、あの文章ではダメだ、と言っていた。つまり佐伯さんの本は、刊行当時、多くの人から、「ダメ」だと言われていたのである。それが、それから十年もたった頃には、まるで状況が変わって、村上も佐伯さん側につき、ジョーンズ教授など彼女の留学受け入れ先になっていた。
 1993年、阪大への就職の話を村上が持ってきたのは、ちょっとした偶然による。その年3月頃、私は、就職するためには先輩などに、職を探している、と言ったほうがいい、と言われた。その後で、村上宛の年賀状が、転居先不明で戻ってきた。私は改めて年賀状を書き、職を探しています、と書いた。すると6月頃、村上から電話があり、阪大で英語教師を探しているんだけど、どう? と言われて、すぐ乗ったのである。ところがその後、連絡のため電話をすると、日本語を話すけれどどうも外国人らしい女性が出たのである。村上に、今の女性は? と訊くと、女房だよ、と言うので、おやあ村上さんの奥さんは日本人だったはずだが、と不思議に思いつつ、さすがに当人に訊くのは憚られた。これが村上より年上の、GYという日系米国人の、阪大の教師だった。後から聞いた話では、村上は最初の夫人連れで米国に留学し、その際「女房に逃げられた」と本人は言っていたが、他の人の話では、村上が追い返した、といい、同時期米国に留学していたGYは、以前日本人と結婚していたが別れた人で、米国で村上と「できた」のは分かったが、それが前夫人との離婚の前なのか後なのかは分からない。またGYは妊娠したが流産して、夫婦ともにその時の嘆きは大きかったという。村上の最初の著書は、この流産した子に捧げられている。
 94年春に、私が赴任する前、住居を定めに大阪へ行って、村上と一杯やった。村上は、もう前からだったが、言葉のセクハラの激しい人物だった。その時も、私が、当時四十くらいになる美しい女性の先輩がまだ独身だと話したら、「えっ、Xさん、まだ一人なの? 僕が貫通してあげるー」とか言うのである。あるいは赴任後の酒の席でも、「小谷野くん、セックスフレンドを持てやー、セックスはええぞー」などと言う。それでいて、どうもフェミニストっぽいことを言うのである。それにはGYの影響もあったと思う。さて、ちょうど私が赴任したころ、二人はその姓を結合させて、ヨコタ村上という長い姓を名乗っていた。正式に裁判所で認めてもらったらしい。まだ赴任したての頃、彼は私の年齢を聞いて「えっ? そんなになってるの? なーんだ、君は、落第野郎か」と言ったのであるが、実に困った男ながら、しばらくは、悪意のない、いたずら小僧のような人だと思っていた。しかしその毒舌は、公益性はないし、洒落にならないことがあった。ドイツ語教師の同僚同士が結婚したことがあった。女性のほうは、私と同期で、ちょっとかわいい子だったが、村上は男のほうに、「なんでTさんなんかと結婚したんだ。あんなブスと」と言ったというのである。私が呆れて、それはひどい、と言ったら「うん、僕もちょっと反省してる」と言っていた。私の後から入ってきた英語のYくんが、「小谷野さん、東大比較ってのはどういうところなんですか。村上みたいな変な奴を出して」と憤懣を露にしていたこともある。軽薄で、助平で、女にもてるという、徳川時代の遊冶郎そのもののような男だった。
 ある時、その妻のGYさんが、「彼は日本でもアメリカでも、セックスは抑圧されている、と感じているの。でも私はそれには反対で、むしろ小谷野派なんです」と言った。村上は、プリンストン大学で博士号を取得しており、私が、日本で出版しないんですか、と訊いたら、特に当てはないと言うので、ある出版社に紹介した。もっとも私の紹介だけでは足りなかったようで、もう一人が紹介して、九七年十一月に本が出た。しかし、一読して私は呆れた。博士論文を日本語として出すということで紹介したのに、それとは違う本になっている。しかも、記述も論証も全体に杜撰。ほどなく、阪大大学院の紀要編集委員の院生から、村上と、お互いの本の書評を書いてくれと言われ、もちろんかなり酷評した。ところが村上はその編集委員だったので、先にこれを読んで、報復的な奇妙な書評を書いてきた。「もてるというのは、タダでセックスができること」と書いてあったのはここである。
 それが二月頃で、同じ頃、比較文学会関西支部例会で、壇上で相互書評をやってくれと頼まれ、出掛けていった。結果として、大勢の人の前での激しい応酬になった。私は村上の本に、コンドームというのをなぜ人は嫌がるのだろう、などと書いてあったから、それは男としては当然でしょう、と言うと、いや、コンドームを付けていても付けていなくても同じだ、と僕は主張している
んだ、女房相手に実験したんだ、きみはセックスしたことないんやろ、と言ったのである。もう十分なセクハラである。だいたい妻に対しても、いいのか。
 もう一つ、彼はその本のあとがきで、従来のアカデミズムを否定する立場に立つので、一般向けの書き方をした、と書いていたが、実は既に博士論文は英語で刊行されていたのだ。私は、おかしいではないか、と言うと、「それは、このテクストの書き手と僕個人を混同しているんだね」と言う。呆れた無責任ポストモダニズムである。さらに同じ頃村上は、二冊の入門書で、比較文学は国家という単位を元にして作られた学問だから、やめてしまえ、と書いていた。私は、代案を出すならともかく、入門書でこんな放り出すような書き方をしておいて、それならあなたが比較文学会にいるのはおかしいではないか、と言ったら、「今まで比較文学会を辞めようと思ったことはある」云々と説明を始めるから、「なぜ辞めなかったのですか」と問うと、「まあ、人間関係で・・・」と口を濁した。
 こうして次第に私と村上の関係は悪化していった。その後ある事件が起きて、以後絶縁状態なのである。当人のホームページには、今なお、息子のオナニーに絶頂はあるか? などという文章が載っているが、息子の人権侵害ではないか? また、そこにもある通り、現在は三人目のロシヤ人妻がいる。
 今回の新刊での夏目房之介への反論をみても、相変わらずである。村上の「ふまじめさ」というのはレトリックではなくて、本性なのである。だから村上と論争をしても、彼にはまじめに議論をする気がないのだから、勝てるはずがないのである。恐るべし。