文学フリマの存在意義

 『週刊ポスト』で池内紀先生が佐伯さんの新刊を書評していた。日文研で佐伯さんが発表した時池内先生もいたが、「大学の講義で男装女装をやるなんて時代も変わったもんだ」(大意)って、漫画学科があちこちにでき、オナニーの研究者が東大准教授になる時代に何をトボけたことを…。
 でもまあトボけているのが池内先生かも。佐伯さんが弁天小僧について発表したのをとらえて、「藝談とかはないんですか。歌右衛門とか」って。佐伯さんが「弁天小僧は女形専門の人はやらなくて、兼ねる役者が」と説明していたが、あれは六年くらい前か。
 そうだ、佐伯さんの本にはケルビーノが取り上げられていない。そういえば、オペラはあんまり観る人じゃなかったな。大河ドラマも観ないから、ガクトの上杉謙信みたいな興味深い事例も知らないわけか。あ、そういえば後藤久美子北畠顕家をやったのとか、夏目雅子以来三蔵法師は女がやるのとか、ピーター・パンを女がやるのとか(これは話していたんだが)項目としてはないな。

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週刊現代』に立川談笑による『禁煙ファシズムと断固戦う!』の書評。そりゃ私は禁煙ファシストを説得する気なんかさらさらない。もはやあのバカどもを説得するなんてのは、徳川家康に「あなたは豊臣家の家臣なんだから、将軍位は秀頼君に」と説得するくらいの不可能事である。

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 「文学フリマ」というのは、何のためにあるのか、さっぱり分からない。これは笙野頼子の論難に大塚英志がむりやり答えさせられた時に言いだしたらしいが、笙野は「純文学作家に生計を立てさせろ」と言っているわけで、何の解決にもなっていない。
 同人誌の小説なんて、知人が書いていたら読むという程度で、見知らぬ人のそれなんぞ、買う人の気がしれない。だいたい大塚の発想はアニメ同人誌から来ているわけだが、あれはお遊びだし。

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年齢の計算が面倒である件。数え年なら簡単だが、満年齢となると、誕生日前か後かで違ってくるから、「1954年、×歳の時に」とか書くのが大変である。いっそのこと、その事柄が起きた年から生年を引いた「単純年齢」というのを、数えとも満とも違うものとして制定したらどうだろうか。

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「バス停のところに立っているから、三時に来て下さい」
「バス停のところに立っているので、三時に来て下さい」
 前者は彼氏に言っているみたいで、後者は仕事上の相手に言っているみたいだ。「から」と「ので」の謎に一歩迫ったぞ。さらにこれを逆にして、
「三時に来て下さい。バス停のところに立っているから」
「三時に来て下さい。バス停のところに立っているので」
 とすると、ますます、前者は仕事上では使えない表現になる。