それは久米正雄だ

車谷弘の『わが俳句交遊記』に、佐佐木茂索(1894-1966)が死んだあと書かれたものが入っている。それによると、佐佐木に「返へさず」という短編があるが、作品集には入れなかったという。『文藝春秋』1926年8月掲載で、川崎という男を主人公とした私小説らしいと車谷は見ている。川崎は若いころ俳句にこって「四水」の俳号で盛んに俳句雑誌に投稿していた。『日本俳句』や、創刊された『層雲』だが、そのうち自分で俳句雑誌を興そうとして同人を募ったが、人が集まらずつぶれた。だがその時、岡島左久馬という男からだけ、二円送ってきた。だが川崎は岡島に連絡せず、二円はそれきりになった。
 それから十年ほどして、新進作家になった川崎は、探偵小説の翻訳を出すことになり、下訳者を探していたら、先輩のM氏が、その岡島左久馬を推薦してきた。そしてかなりの量の下訳原稿を預かったが、これも日の目を見なかった。それから二年ほどして一人の女が訪ねてきて、岡島の妻だと言い、岡島はあのあとほどなく死んだと言って、原稿を持ち帰った。その女は、それからほどなく、日本初のラジオの女性アナウンサーになった、という。
 車谷はこれを読んで、日本の女性アナウンサー一号は誰か調べたら、それが翠川秋子(1889-1935)で、ラジオは一年ほどで辞め、三人の子を成人させたあと、19歳年下の男と心中したというのだ。本名は荻野千代とある。
 ではその夫だったのは誰かというに、小説からすると英文科卒らしく、私大を出て銀行員になったとあり、車谷が調べると翻訳もやっていたという。
 ところでこの俳句の話だが、これは考えてみると佐佐木ではなくて久米正雄のことである。佐佐木は少年時代に伯父の養子になって朝鮮へ渡っていて、話があわないし、頭文字がKだし、四水というのは三汀のもじりである。だがルパンの翻訳を出したのは佐佐木だから、俳句の話は久米、翻訳は佐佐木というのをとりあわせて書いたに違いない。この小説が出たころ、佐佐木とふさの夫婦は久米の隣に住んでいたし、久米は愛宕山の放送局へ通っていたから、話は筒抜けである。