昨日の続きだが、直木賞規定に「大衆文藝」とあるのに、芥川賞規定には「純文藝」ではなく「創作」とある点について、「直木賞のすべて」のPLBさんにお尋ねしたところ、以下のような返答があった。
芥川賞規定に「純文藝」と書いていない(「創作」と書いてある)理由ですが、まず単純に考えて、『文藝春秋』誌の当時の慣習、だと私は思っておりました。
創刊5号めである大正12年5月号以来、同誌では、小説・戯曲を載せる欄はずっと「創作」と表記されつづけていたからです。
要は、「芥川賞は『文藝春秋』誌の「創作」欄に載せる類いのものを対象にしているんだ」ということを、文藝春秋社(菊池寛ではなく佐佐木茂索か編集者)が表現したものではないでしょうか。
「大衆文藝」のほうは、これも『文藝春秋』の「大衆文藝」枠(昭和2年ごろは「創作」欄とは別枠、昭和6-7年ごろは「創作」欄の一部でしたが(大衆文藝)と書かれて他に作品とは一線を画され、『オール讀物』創刊以後は本誌から消えていった)に相当するもの、を意味していたのかな、と。
本誌を中心とする同社の雑誌(もしくは掲載枠)の区分において、当時用いていた用語が、規定に表れている、と理解しています。
なるほど。また芥川・直木賞規定は、菊池が書いたものとは限らないのだが、菊池の言として「作家が書きたくて書いてゐるのが純文芸で、人を悦ばすために書いてゐるのが大衆文芸だ。」昭和8年6月(「大衆文芸談義」東京日日新聞)というのを教えられた。私も見たことはある。
大正九年に、徳田秋聲・島崎藤村の生誕五十年が祝われた際、出席者の短編を集めて『現代小説選集』が刊行されたのだが、この時、新潮社の中村武羅夫が、秋聲が推薦した長田幹彦の作品について、長田は通俗だからと言って外すことを主張するという事件があった。既にこの時点で、通俗小説という語は十分に浸透していたのであり、かねてより一部で主張されている、「純文学-大衆文学」の区別は昭和以後のものだというのは、言葉にとらえられて実態を見誤ったものといえるだろう。
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富岡多恵子の『青春絶望音頭』(1970)には「シナ人」と書いてある。加藤周一の『続羊の歌』(岩波新書、1968)にも「シナ」がある。つまりシナがいかんということになったのは、日中国交回復以後なのである。むろん戦後すぐ中華民国政府が通達を出しているのは知っているが。
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http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/index.html
続きである。「理解できないのだ」と言われてしまえば、そうか理解できないのか、と言うほかないのだが、西鶴や近松、芭蕉を受容したのが町人だ、というのであれば、西洋では身分について鈴木氏はどう考えているのだろうか。郷紳というようなものがあって、そういう階層が通俗小説を読んでいたのであろう。
鈴木氏が、自分がいかに西洋の文学を、原語で勉強したかということを述べているのだが、私は全然語学は苦手である。しかも私が言っているのは、鈴木氏が、西洋の通俗小説についてどの程度知っているのか、ということで、倉田信子『フランス・バロック小説の世界』とか、玉田佳子『偽装する女性作家』といった、日本人が書いた本のことを言っているのだ。あるいは、明治期の新聞小説とかである。
それはいいとして、近代になって、再編があったというのは、それは当然のことである。別に誰もそれを否定してはいない。すると鈴木氏は、西洋には民衆文学はあったが大衆文学はなかった、というのであろうか。私だって、大正末から昭和初にかけて、「大衆文学」というのが、時代小説をさす語であったことくらい知っている。白井喬二が菊池寛を排除したというのは知らないが、芥川賞と直木賞の制定に久米正雄も与ったことは白井の自伝『さらば富士に立つ影』を見たって分かる。
それに鈴木氏の言い方だと、直木賞受賞作は時代小説でなければならないことになるが、川口松太郎は時代小説であろうか。それと、前のほうで、SFは大衆小説だから直木賞をとれなかった、とあるのはどういう意味だろう。単に村上元三がSF嫌いだったからではないのか。
自分の本を読め読めと言われるので、私も、『私小説のすすめ』とか『リアリズムの擁護』とかは、読んでもらいたいと思う。しかしよく「思いつき」と言われるが、なんで思いつきでなどあるものか。
ま、いずれにせよ、まだ本を入手していない。それが届いて精読すれば分かるのだろう。
http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/what's%20new/2011/koyano7.pdf
さらに続く。鈴木氏は、1935年頃までには、「大衆文学」という編成が変わったと言う。それはそれでいい。しかし、純文学のほうは、1961年まで決まらなかった、と言いたいのか。なるほど「純文学」という語については、揺らぎがあるけれども、実態としては決まっていただろう、と私は言っているのである。
なお『私小説のすすめ』を読むと、私小説が日本独自のものだというのは間違いだというのが分かる。
さて、そうしている間に、鈴木氏の著書が意外に早く届いた。
それで摘読してみると、これは何とも厄介な本である、ということが分かった。最初に私が疑問に思ったような、「日本文学は宗教も美術も哲学も入っている。西洋文学と違う」というのが、あとのほうでこちょこちょと修正されていって、何のことはない、違わないではないか、ということになる。
たとえば、日本文学史の冒頭に『古事記』『日本書紀』が来るが、西洋では『聖書』を文学史に入れない、宗教は扱わないのだ、神学部でやるのだ、などとあるから、それはおかしい、ジェイムズ一世の時代の欽定訳聖書は文学史に出てくるし、だいいちギリシャ神話とか、エッダとかカレワラはどうなのだ、ノースロップ・フライは聖書を論じたぞ、また仏典は果して日本文学研究の対象になっているだろうか、と思うと、あとでちょこちょこと修正が入る。
「民衆文学」にしても、西鶴や近松は、明治期に再発見されたもので、それが西洋的な文学の基準に合致すると見なされたから文学史に入り、洒落本や滑稽本は、前に言った通り、当時ほかにあまり文学らしいものがなかったから入れられたのであろう。
「日本文学史」は西洋のそれと違うというのか、違わないのか。私はさして違わないと思う。アメリカ文学史を見れば、初めのほうは、コットン・メイザーのような宗教家や、科学者にして政治家のフランクリンの自伝などが出てくるし、エマソンのような哲学者も入る。英文学史でも、カーライル、ラスキンの美術論から、歴史家ギボン、英語学者のサミュエル・ジョンソン、文明批評のマシュー・アーノルド、チャールズ・ラムのエッセイなどがあり、フランス文学では百科全書派やルソー、ミシュレ、下ってはアンドレ・モーロワも入るし、ベルクソンもノーベル文学賞をとっている。
しかし19世紀後半から、小説というジャンルが藝術性を高めていき、哲学、美術史などが学問として分科していくにつれて、狭義の文学だけになっていく。文藝評論というものが、文学研究とどう違うのかというのは、今なお奇妙な問題として残っていて、それは要するに文壇というものとの距離によって決まるのである。鈴木貞美の本は研究書なのに『新潮』で書評の対象になったのは、鈴木氏がはじめ小説を書き。かつて文藝評論家として執筆していたからである。
なお、西洋では19世紀末まで大衆小説(通俗小説)はなかった、というのは、私が捏造した鈴木氏の意見ではなくて、かつて研究会で同氏が発言したことである。
さて、一つ気にかかっているのは、というより、私が鈴木氏著を問題にした理由の一つは、「純文学と大衆文学」という図式を崩せといったことを鈴木氏が、小田切秀雄との論争の時以来、言っているような言っていないような態度をとるからである。その小田切についてこの本では、「純文学にも堕落したものがあり、大衆文学にも優れたものがある、でいいではないか」という姿勢を崩そうとしなかった、と書いているのだが、私は小田切が間違っているとは思えない。
確かにあの論争の際、小田切は、北村透谷が用いた「純文学」の意味を取り違えていた。しかし、昭和以降の文藝において、小田切の言うのはその通りである。なお鈴木著に「加藤武郎」という「批評家」が出てくるが、これは通俗作家であった新潮社の加藤武雄のことであろう(索引の生没年でそれは確かである)。
私が盛んに久米正雄の名を出したのは、恐らく鈴木氏は、久米や加藤、三上於菟吉らの通俗小説を読んでいないだろうと思ったからだ。それらは、恐ろしく下らない。鈴木氏は、小田切との論争で、『ドグラ・マグラ』や『大菩薩峠』を挙げていたが、ほかに何があるのかと小田切は食い下がった。この論争については『現代文学論争』にまとめてあるが、実際1980年以後、蓮實重彦が『小説から遠く離れて』で論じたような、大衆小説風の作品が純文学として通用させられるという状況が、現在ではさらに悪化して、純文学作家の多くが、通俗小説を書いて純文学作品として通用させることになった。このことは、「純文学」「大衆文学」という語であれ概念であれ、その歴史をどう調べたって変わることのない事実である。
もし鈴木氏が、一切価値判断をしないという学問的立場に立つのであれば、ただ、かくかくしかじか、でうっちゃっておけばよろしい。いや、あくまで鈴木氏は、昭和前期のことを言っているだけであって、現代の文学状況になど何の関心もないのだ、というのであれば、それでよろしい。しかし小田切は明らかに、現在の文学状況のこととして議論をしていたはずである。
純文学と大衆文学のどちらともいえる小説がある、といったことを言う人は多いが、どう見たって大衆文学であろうというもの(西村京太郎の小説とか)と、どう見たって純文学であろうというもの(古井由吉とか)はあるのであって、もしかすると鈴木氏は現代の小説など全然読んでいないのかもしれないが、どう考えているのか訊いてみたい気はする。
私が玉田佳子著を挙げたのは、18世紀英国において、女性読者のための手紙文範やマナーブックが小説と密接な関係にあったからで、これは近世日本でも女訓書、艶書文範といったものが、文藝へ展開することがあったのと近い。『薄雪物語』については、松原秀江『薄雪物語と御伽草子・仮名草子』に詳しく、女訓書については青山忠一『仮名草子と近世女訓文藝の研究』ほか、結構研究がある。なお西鶴や近松の享受者が圧倒的に町人であったというのは、黄表紙などの作者に武士が多いことから見ても疑わしい。