http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/what's%20new/2011/koyano518.pdf
鈴木氏の反駁文は、本筋とは関係のない話が多く、そこで「博識」ぶりを開陳するので、それに幻惑されてしまいがちだ。私も、余談を誘発するようなところがある。そこでそういうあたり、ないし私への嫌味の類は無視することにする。
 さて、鈴木氏の著書の冒頭は「本書は、「日本文学史」などに用いられる「日本文学」という概念が明治期にはじめて成立したこと、それが国際的に実にユニークな「人文学」であることを明らかにする」となっている。ところがここで(以下敬称略)鈴木は「明治期に成立した『日本文学』という概念」といっているが、これはだいぶ違っている。「明治期に成立して、今日まで引き継がれてきた」という意味だと、普通はとる。そして「小谷野君は「明治期に成立した」を抜かして1980年ころを思うからおかしいのだ」と言い、たとえそう思ったとしても、というが、冒頭の文章で鈴木は結論を述べているわけだ。長い著作で、途中で筆がすべることはあるが、結論を述べている冒頭の文章は、もっと明晰でなければならない。
 しかも実際には、1890年よりあとのことまで、この本には書いてあるのだ。混乱するのが当然で、混乱するのは分かっていないからだと言う鈴木が無茶なのである。
 ただ漢文については、鈴木はここである程度譲歩したとみる。
 次に「民衆文学」だが、「自然発生的」の説明は、とりあえずどうでもよい。鈴木が、近世文藝を「民衆文学」というのは、専門家もずっと言っているというから、今誰が言っているか問うたが、答えがなかったのは、今では誰も言わない、という理解でよいかと思う。
「わたしは「大衆文学」(mass literature)を20世紀に限定して用いている。」
 すでにその上のところからおかしいのだが、近世日本の「民衆文学」と、西洋の「民衆文学」をなぜわざわざ同じ語にするのかと私は問うているのだ。『概念』で鈴木は、日本での話だが、大衆文学と民衆文学は違うと言う。そして大衆文学は、大衆の享受を当てにしたマスプロ文学のような意味で使っている。私はそれは、西洋では19世紀半ばから成立していたのではないかと言っている。「大衆文学」を20世紀に限定するというのは、鈴木の単なる意見にすぎない。現に『アメリカの大衆小説』という進藤氏の著書を挙げている。
 それと、そのうち気づくかと思っていたのだが、政治的権力を持っていないのが「民衆」だと鈴木は言うが、19世紀西洋通俗小説の享受層の多くは女である。女に政治的権力があっただろうか。
「西洋近代の”polite literature”の概念を受け取ったのに、それが排除する”popular literature”を積極的に入れた、と言っているのだ。」
 鈴木がしばしば言及する三上参次高津鍬三郎の『日本文学史』を見ると、たとえば式亭三馬のところでは、三馬が庶民をユーモラスに描いたとして、ディケンズモーパッサンになぞらえられている。これらは、西洋の文学史にも堂々と載っている。
 日本で特に「純文学/大衆文学」の区分が強固だと感じられるとしたら、芥川・直木賞のためであるというのは、動かしがたいと思う。鈴木は否定しているが、論拠は乏しい。それどころか鈴木自身、SFが直木賞の候補になったならないと言っているではないか。なおデビューに関して言えば、昔の直木賞は、三好京三のような単行本もない作家に与えられることもあったが、だいたい単行本が出たのを本格デビューとみていいだろう。 
 「宗教が入っている」の件については、鈴木氏が顧みて他を言うから、決着がついたと思っていた。灯台を基準にするなら国立大で宗教学部など作れるはずがない、「古事記」は天皇教の聖典にはなっていない。東大では日本仏教は宗教学科でやっている。
 1935年前後に純文学・大衆文学の区別が成立したというより、大正後期から昭和初期だと私は思う。それを鈴木が覆したとは、いくら聞いても私には思えない。だいたい「中間小説」という名称自体、純文学と大衆文学の中間という意味である。それを、中間小説で三分割された後で成立したなどというのは、子供のあとから両親ができるようなものだ。
 なお、私の「大衆文学」の用法が鈴木に分かりにくいのは、私が『聖母のいない国』で書いたことを読んでいないからだと思う。そこで私は、『ジェイン・エア』は百年後に書かれていたら通俗扱いされただろうとしている。それはちょうど、デュ=モーリアの『レベッカ』がそうであるのに近い。
 鈴木氏が、『講談倶楽部』などを見ていないことを「白状」したのは痛快であった。実は私も、『若草』は見ていなかった。『若草』を文藝雑誌だとしたのは和田芳恵だと思う。私は、コバルトとか春陽文庫など、直木賞の候補にもならない小説を「直木賞以下」と言っている。
「私が日本も西洋も同じと言っているのは、文学史村井弦斎や渡辺霞亭、その他の「家庭小説」、菊池幽芳から、西村京太郎、赤川次郎、果ては陣出達朗、山手樹一郎は入らないという意味においてである」と書いたのは、1960年ころのもの、つまり中公の「日本の文学」あたりのことだ。改造社の円本には弦斎も幽芳も入っているが、そちらではそのようなことは書いていないし、プロレタリア文学が入っていないとも書いていない。そして順番を見れば、年代順ではなく、幽芳、弦斎、春雨などが後ろのほうに来ていることは明らかである。
 不思議なのは、鈴木は近世日本文藝については「読んで」高い評価を下し、それが日本文学史に入っている、と言うのに、西洋の(鈴木の語でいえば)「民衆文学」つまりセンセーション・ノヴェルなどを、どうやら読まずに、文学史に入っていないと言っているらしいことだ。いや、日本の「民衆文学」のようなものはない、と言うのだから、少しは覗いたのだろう。なお私は、デフォーやスウィフトの「市民文学」は、戯作などよりよほど優れたものだと思う。馬琴は別だが。その点で中村幸彦の『戯作論』の意見に賛同している。
(付記)
 研究会などでの発言についてだが、言い間違いであればよろしい。しかしシンポジウムというものもある。これは公開なのだからいいだろう。それに、「問題発言」のようなものは、許可を願っても許されないだろうから私は場合によっては公開する。むろん、私が大学教授であれば、学生の発言に関しては守秘義務が生じる。これは言うまでもない。鈴木も、かつて公務員、今もみなし公務員であるから、発言は慎重にしないと、アカハラになるのでご注意されたい。
(付記2)
 確かに私は『日本の文学を考える』に書いてあったことを忘れていたようだ。ただ忘れられないのは、鴎外のドイツ三部作は、ドイツの三文小説をもとにしているとあったことだ。この「三文小説」はいったいどう位置づけられるのだろう。
(付記3)
 青山誠子『シェイクスピアの民衆世界』によると、シェイクスピア劇では、平土間で見物するのは、第四階層、小売商人、職人、日雇い労働者、徒弟、家事使用人などが多数であったと推定される、とある。ただどうも鈴木氏は、王侯貴族が中心だったと考えているらしいので、その根拠となる研究を教えてもらいたい。
(付記4)
 「『久米正雄伝』の見本が届いて思い出したんだろう」ってどういう育ち方をすればそこまで異常な性格の人間になれるのだろうか。