1995年6月27日の読売新聞で、面白い記事を見つけた。島田雅彦が、インタビュー形式で、文藝時評をするものだが、「今月からゲストに迎えた島田雅彦氏は、三浦(俊彦)氏のもくろみに理解を示しつつ、「私小説を極める方が、文学の復権には有効」とみる。」
「魂の暴力」に“素の私”、私小説的な風情を読みとるとすれば、青野聰氏の新刊「人生の日付を求めて」(新潮社刊)には、どんな“私”が表れているだろう。
「これは私小説を書こうとする私という登場人物を、作者である私が書いているという設定の、いわゆるメタフィクションですね。語り手を複層化、多層化させて、私小説をポリフォニックに書こうとしている。が、いまさらメタフィクションを手法として前面に出しても、ほとんど意味はない。だってメディアに包囲された我々の日常生活は、ほっといたってそのままメタフィクションなんですから。みんなが相手や媒体という状況に応じて、複数の“私”を生きている。むしろ青野さんは、ド私小説を書く勇気を持つべきだった。私小説の復活にこそ、今、ラディカルな意味がある。それを書く資格を彼は持っているのだから」
私小説を書く資格? 岩野泡鳴、近松秋江の昔から、私小説といえば放蕩(女)、貧乏、病気がつきものと言われてきたが。
「読者の興味を引き付けるのは、とりわけドンファンの物語。複数の女性と付き合いながら、誠実に生きようとすればするほど、語りはおのずと複層化し、虚実の境はなくなる。相手の女性の視線から自分を描くことだってできる。私小説はもともとポリフォニックなのです。そうした豊穰な小説空間を造りうる日常を営むために、まず女性にモテなければ。有資格者は限られますよ」
「火宅の人」でまさに私小説的世界を生きた檀一雄を、ノンフィクション作家・沢木耕太郎氏が「檀」(新潮)という作品にしている。これは私小説だろうか。(後略)
うふふふ。