http://www.himeco.jp/blog/2011/02/%E5%A4%AB%E5%A9%A6%E5%88%A5%E5%A7%93.html
野田聖子が、遂に「野田姓」での入籍をしたという。
ここで、それが「野田」という家名を残したいという家制度的な思惑に基づくことを明らかにしている。しかし前半は詭弁である。夫婦同姓を強制するのは日本だけだというが、西洋諸国には戸籍がないから強制のしようがない。ならば戸籍の廃止を唱えたらどうか。台湾と韓国には戸籍があるが、夫婦別姓でも儒教的男尊女卑の残る国々であるから、子供の姓は夫のものである。
私は家制度に賛同はしない近代主義者だが、一歩譲ってそれを認めるとしても、夫婦別姓にしたところで、子供の姓をめぐる意思統一がなされていなければ、それは破綻する。仮に子供のできない、あるいは作らない夫婦であれば、家名存続はいずれにせよできないのだ。
子供の姓は婚姻時に定めておくという案であれば、鶴保が野田姓になるのを拒んだのと同じことが起こるだけだし、仮にそのたび毎に子供の姓を決めるという案であっても、複数の子供ができるとは限らない以上、夫婦間でもめて、離婚が増える。
家制度をよしとするのであれば、長男は当然ながら姓を変えることはできないわけで、しかし子供の数が少ない現代で、仮にきょうだい二人として、ともに男子である確率は四分の一、そこから次男をより分けるということになって、しかも次男だからといってほいほいと子供が自分と違う姓になるのを容認するわけではない。
私は繰り返しこのことを言っているのだが、野田はまったく議論の土俵に乗ろうとしない。離婚経験のある人は中立であってほしいというが、まさに鶴保と同じ目に遭ったからこそ、私は「家名の存続」という考えを捨てるしかない、と思っている。