中川右介『坂東玉三郎』

 この本をようやく通読した。『団十郎歌右衛門』の時から、中川氏は、老いて醜くなってなお歌舞伎界に君臨した歌右衛門を批判し続けており、ここでも歌右衛門は、歌舞伎座女形の座を守り、玉三郎歌舞伎座から排斥した(らしい)敵役を演じさせられている。私はそもそも、歌右衛門も若いころは美しかったとか、藝が優れていたとかいうこと自体を疑っているので、こういう本は小気味よい。
 とはいえ、私は玉三郎の賛美者ではない。実は、女形には、美しくないけれどいい、というのがあって、玉三郎の美は、歌舞伎女形のよさとはちょっと違うと思うのである。私には、若いころの扇雀つまり今の藤十郎のほうが歌舞伎らしい美だと思うし、60歳を過ぎてからの秀太郎、あるいは芝翫、ないし孝太郎の、脇役で見せる、美しくない女形に味わいを感じる。
 しかし、前著以来、どうも「團十郎びいき」が過ぎると感じることがあって、先代團十郎ががんで死んだのを、歌右衛門との確執から来るストレスが原因のように書くのも、どうかと思うし、こちらでは、「勧進帳」が市川宗家の家の藝であることを忘れてはならない、などと書いてあって、私はそんなことは忘れてもいいだろうと思う。それに今の團十郎の藝がいいとはとても思えないのである。團十郎というのは人たらしなので、会ってしまうとみなその姿勢の低いのにやられてしまって悪口が言えなくなるのである。
 もっともこの本は、玉三郎の出演がほぼ網羅されていてそれはデータベースとして嬉しい。いやそんなものはどこか別のところにあるのだろうが、俳優個々人の出演履歴というのは、人気役者でないとなかなかないもので、これは各劇場演目とともにクロスレファレンスでデータベース化してほしいのだが、今のところは
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/dbroot/kabuki.htm
 これも演目しか分からない。まあ、いずれそういうのも出来るだろう。

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サンデー毎日』で張競さんが日野啓三の「あの夕陽」を取り上げていた。「従来の私小説とはまったく違う」として、細部の描写にこだわったり「個の発見に固執したり」しない、というのだが、さて。「従来の」というのは、「あの夕陽」が出た1974年頃より前ということなのだろうか。しかし、別にそれまでの私小説がみなそうだった、というようなことはまったくないのであって、こういうことを書く人は実際に私小説を大して読んではいないのである。「個の発見に固執」に至っては、そんなことに固執した私小説作家など皆無であろう。単に評論家がそういうことを言っているだけである。
 ところで日野啓三といえば、SF好きで知られ、のち中編『抱擁』を出して評判が良く泉鏡花賞をとったのだが、その時『幻想文学』でインタビューがあって、「イデオン」がいいとか言っていた。日野の息子は『抱擁』を、やっと小説らしいものが出来た、これまで書いたのは綴り方だ、などと言っていたのだが、実は『抱擁』はさほど面白くなく、実は初期の私小説のほうが面白い。その後も日野はアニメ礼讃を続けたので、若者に媚びているなどと揶揄されたものだ。