近松門左衛門と坂田藤十郎

 中川右介さんとの公開対談も無事終了したが、一つ気になったことが積み残しになっていた。中川さんの『悲劇の名門團十郎十二代』で、坂田藤十郎(初代)が近松門左衛門と協力して上方の和事歌舞伎を完成させた、とあったことだ。
 この記述は、おそらく小坂井澄『團十郎と『勧進帳』』を踏襲したのではないかと思うが、私は小坂井著のアマゾンレビューで、近松が協力したのは竹本義太夫であろうと書いておいた。すると後から、近松が歌舞伎も書いたことを知らないのかという、一知半解のレビューが私の本のほうに載せられた。本のレビューではない誹謗の類だったので削除させたが、もちろん近松は一時期都万太夫一座で歌舞伎『けいせい仏の原』『けいせい壬生大念仏』を書いている。だが、それをもって、近松藤十郎がコンビを組んで和事を完成させたとは言えないのだ。
 この点、詳しいのは宮辻政夫『京都南座物語』で、その間の経緯を詳しく書いている。宮辻もまた、近松の役割を重く見たがっているが、実際には山下半左衛門との激しいつばぜり合いがあって、半左衛門一座の『けいせい浅間嶽』が大入りをし、藤十郎近松が『けいせい仏の原』で巻き返したといったことが分かる。
 しかし一般に、元禄期に江戸で市川團十郎が荒事を、上方で藤十郎が和事を確立した、と文化史年表などにあるけれど、たとえば藤十郎一人を扱った書籍というのは、今日まで一つもない。だいたい、江戸の荒事、上方の和事などという分け方が、いかにも図式的で、いずれも狂言の性質自体がそう違うはずもなく、当時から役者は江戸と上方を行き来していたし、藤十郎以外にも役者はいたのである。
 一方近松については、明治中期に、「日本のシェイクスピア」などと言われるようになったが、これは、そもそも浄瑠璃や歌舞伎というのは、一人の作者が書くものではないのを、坪内逍遥などが、西洋文化史に倣った演劇史を作ろうとして、近松を再発見したのだと私は考えている。
 團十郎については、作者というものを発見できなかった。近松浄瑠璃作者だが、一時期歌舞伎も書き、それは坂田藤十郎のためであった、したがって藤十郎は過剰に有名にされ、近松もまた藤十郎つきの作者という位置に置かれたのではないか。
 よく言われるのが、当時は台本に作者名を書かなかった。だから、近松作と判明していない、藤十郎が演じた狂言もあったはずだという推定だが、それはむしろ、偉大な近松であるから歌舞伎でも大きな役割を演じたであろうという見込みで言われていることだと思う。
 それが近年、近松好きの当代藤十郎が、盛んに発言してきたため、近松藤十郎が和事を完成したという、おかしな言説が現れてきたのではないかと思う。
 もっとも、藤十郎が和事の完成者として特筆される名前なのかどうか、それすら疑わしい。