竹田出雲二代(最終回)

 宝暦二年五月には新作「世話言漢楚軍談(せわことばかんそぐんだん)」を上演した。作者は、竹田外記を名のった出雲、冠子、半二、松洛、中村閨二である。この十月には、京都の北側芝居で、上方で最も人気のある女形となった中村富十郎が「百千鳥娘道成寺」を踊っている。竹本座では、十一月には同じ顔ぶれの作「伊達錦五十四郡」が上演されたが、出雲としてはつくづく、千柳の力の大きかったことを思った。吉田文三郎はいよいよ野心をふくらませ、竹本座から自立したい気勢を見せ、出雲はこれを押さえていた。この年、竹田の一族で死んだ女性がいることが墓誌で確認されているが、出雲の後妻ではないかとされている。
 宝暦三年(一七五三)七月二十一日、竹田小出雲が死んで、のちの三代出雲清宣が三代目小出雲となった。おそらく小出雲はのち竹本座座元の前名であり、出雲の息子が小出雲を名のっていたのが、少年の年ごろで死んでしまい、出雲の弟が三代小出雲になったのではないかとされているが、本当はどうなのか分からない。
 五月五日からは新作「愛護稚名歌勝鬨」を上演した。出雲は竹田外記を名乗って筆頭作者となり、ほかに冠子、閨助、半二、松洛、中邑阿契となっている。これは説経節「愛護若」を中心にしているが、その筋はほとんどなくなり、平将門を討った俵藤太と、征東将軍として途中まで向かった藤原忠文が、藤太と平貞盛が将門を討ったために恩賞に与れず、怨霊となった話をもとに、藤太の子・藤原千晴と、忠文の孫・古曽部蔵人の意趣を背景に、政治を壟断する高階景連を討つまで、複雑な筋が展開する作品である。
 翌宝暦四年には、二月に「菖蒲前操弦(あやめのまえみさおのゆみはり)」、四月に「小袖組貫練門平(こそでぐみかんねらもんべい)」、十月に「小野道風青柳硯」と、同じ顔ぶれで出したが、平安時代前期の謀反ものである「小野道風」が久しぶりに当たりをとり、歌舞伎でも上演された。小野道風と柳と蛙のとりあわせはこの浄瑠璃に始まる。
  十一月に江戸では、二代目松本幸四郎が二代目團十郎だった海老蔵の養子となり、四代目団十郎を襲名した。これは三代目團十郎が早世して空白になった期間をへてのことで、のちに四代目は実子の三代目松本幸四郎に五代目團十郎を譲って自分は幸四郎に戻り、さらに海老蔵を襲名するという経緯をたどっている。団十郎松本幸四郎の名はこのような所以でからみあっており、明治以後、七代目松本幸四郎となったのが、三重県出身で振り付け師の藤間勘右衛門の養子という地位ながら、幸四郎の名を襲名したのにはずいぶんカネがかかったというが、そこから團十郎不在の時代に「勧進帳」の弁慶を一六〇〇回演じたと言われ、長男がのち十一代團十郎になったのもゆえのないことではなかったのである。
 だが、その年の年末から、出雲の体調が優れなくなった。六十四になるが、親爺はもっと高齢まで元気だったが・・・・と思いつつ、腹の具合が悪く、漢方医を呼んだが、腹に手を当てていた医師の顔色が変わったのを、出雲は目にしてしまった。
 座では、旧作を上演していたが、客はそれなりに入っていた。文三郎の人気が高かったからともいえる。
 七月のごく暑い日だったが、出雲はひそかに、息子の小出雲に、松洛と半二を枕元へ呼んだ。
 「多分あたしはもうダメだと思う」
 出雲は、そう言った。小出雲は前から聞いていたが、松洛も半二も、うなだれて聞いていた。
 「この先、竹本座が前の勢いを続けられるとしたら、半二、お前さんが中心になってのことやと思う」
 半二が身を乗り出そうとしたのを出雲は両手でおさえて、
 「もちろん、そないなことは分からん。分からんが今のわっちの見るところではそうや。そやから、松洛さん、ご苦労やけどそのつもりで半二を育ててやっておくれやす」
 松洛と半二が、涙を流し始めた。
 「あとな、ええことばかりやないねや。文三郎のことや」
 二人の顔が引き締まった。小出雲は前から聞いていた。
 「あれは利かん男やなあ。芸人ちゅうのは、時にはああでなけりゃあかんこともあるけど、こっちからしたら話は別ちゃ。どうしてもこれはあかんと思たら、追い出しておくんなはれ」
 松洛が固唾を呑んだ。
 「おい・・・水」
 出雲が妻を呼んで、水を飲ませてもらっているのを潮に、松洛と半二は席を立った。
 翌明暦五年には、松洛、半二らの新作「崇徳院讃岐伝記」を、出雲以下の作者名義で上演したが、すでに出雲はその上演を観ることも難しくなっていた。
 十月十五日からは、やはり出雲を筆頭作者とする新作「平惟茂凱陣紅葉」を上演したが、ついにこれが二代出雲の白鳥の歌となり、出雲は十一月四日、六十五歳で不帰の客となった。
 竹本座の座元は、四代目竹田近江が継いだ。息子の小出雲は二代目の没後四年で、三代目出雲を継いだが、作者として名を残すほどのことはなかった。そのため、一般に竹田出雲といえば、千前軒の初代出雲と、二代目出雲の二人が知られている。
 二代出雲の死後三年で、吉田文三郎は竹本座を追放されることになり、四代目竹田近江は『倒冠雑誌』というパンフレットを出して文三郎に対して竹本座の立場を守ったが、浄瑠璃作者については残った史料が少なく、昭和初年まで、竹田出雲が二代にわたることが知られていなかった。竹本座の再興を担ったのは近松半二だったが、「近江源氏先陣館」「妹背山婦女庭訓」などを当てたころには、竹本座自体が廃座となり、別の興行主の手に移っていた。世間の人気ははっきりと浄瑠璃より歌舞伎のほうに移り、天明三年、半二は最後の作品「伊賀越道中双六」を未完のまま五十八で没し、「伊賀越」は別の者の手で完成されて上演されたが、それが竹本座の残り香の最後の輝きとなった。