明治以前の男の恋

「恋愛」は明治になって輸入されたという都市伝説はさんざん批判してきたが、徳川時代に男が恋することが美化されなかった、という面はある。
 しかし黙阿弥の「縮屋新助」は「籠釣瓶」に先行する万延元年の作だが、ここで新助が芸者おみよに「情婦になってくれ」と「コクる」場面があったのに気づいた。「四谷怪談」の与茂七もその一種だが、いちおうメモ。

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車谷長吉の「妖談」の中の「殴る蹴る」は、今年の『文學界』一月号掲載。慶大独文科へ入った主人公が、東大を定年になって教えていた相良守峯の講義に出ていたら『ファウスト』をやっていて、「僕くらいの大学者になるとこういう気持ちが分かるんだよね」と相良が言ったのを主人公が「えっ、誰が大学者なの」と言ったため相良はずっこけ、授業を中断して帰ってしまう。その後、三重県出身博士課程二年の橋田良雄、のち愛知県の私大へ赴任、と、九州出身修士課程一年の比田忠敬(ただよし)、のち岡山県の私大へ赴任、に酒場へ呼び出され、先生を侮辱したと言って殴る蹴るされる話である。ただしこの二人は相良から叱責されたとある。
 この二人は誰かというので、相良の自伝でそのあたりは日記風に詳しい『茫々わが歳月』を取り出して調べたのだが、よほど名前を変えたらしく、分からん。なおこの本は古書店で購ったものだが謹呈栞が入っており「齢茫々八十三歳 独文界に在籍六十余年の一代記ご笑覧まで」とある。自分のことを「大学者」と言うのと「一代記」というのと相通ずるものがある。老年に及んでからは、誰君が与謝野晶子の孫と結婚しただの、天皇陛下にお目通りしただの、誰それが永眠しただのという記事が多くて気持ち悪くなった。しかし文化勲章をとったつまらん学者と言い捨て切れないものがある。市河三喜が最後はボケたことなど書いてあり「頭の良さとこれとは関係がないらしい」などとあっておかしい。
 なお純然たる「文学研究」で文化勲章をとった人は未だない。相良は独和辞典編纂、市古貞次は「国書総目録」編纂で貰ったのだ。