伊藤整日記が全八巻で完結した。十年ほどの期間だが大変な分量である。伊藤には「太平洋戦争日記」もあるし、日記つけは習慣となっていたようだ。伊藤は川端康成に近かったし、『新・文章読本』も代筆しているから、川端関連の事項を拾うつもりで読んでいたが、これでは既刊の『川端康成詳細年譜』(深澤晴美共編、勉誠出版)もかなり増補する必要があるなと思った。
最後は一九六九年十一月四日の記述で終わっており、これは死去した十五日の十一日前である。しかし晩年の十年程度とはいえ、伊藤のすさまじい多忙さには読んでいるほうが何ともいえない気持ちになる。はじめは東工大の教授をやり、チャタレイ裁判も抱えた身で、小説を書き、評論を書き、ペンクラブや日本文藝家協会の仕事もしているから、多忙なのは当然だが、大学を辞めてからもほとんど同じ多忙さが続いているように見える。私は川端を調べたから、川端だって多忙だが、それは多忙なりの結果を残しているからいい。だが、伊藤の小説のどれだけが今日読まれているかを考えると、伊藤の多忙さが虚しく思えて仕方がない。『日本文壇史』など、四十代から『群像』に連載しているが、あれは参考文献の記述を時系列に並べかえたもので、インデックスとして使う分には便利だが、伊藤がその仕事をする必要があったかとなると、疑問なのである。伊藤が多忙だということは、仕事が持ち込まれるということであり、金持ちであるということである。『女性に関する十二章』がベストセラーになったあたりから、「伊藤整ブーム」が起き、全集まで売れ、それが死去までほぼ途切れなく続いて、晩年には六十代で藝術院会員にもなっている。つまり伊藤は成功者なのである。だが、今では読まれていない。そこが、吉川英治や松本清張や川端が多忙だったのと、伊藤が多忙だったのとの違いであり、私はいつもそのことを考え込む。
伊藤は『日本文壇史』では菊池寛賞をとっているが、小説で賞をとったことはなかった。たとえば『火の鳥』はベストセラーになったし、その掲載方法は川端の『雪国』『山の音』と同じ、あちこちの雑誌にばらばらに載せるという形式だった。だが『火の鳥』を、今日誰が名作と呼ぼう。通俗小説に過ぎないではないか。伊藤には初期の『得能五郎の生活と意見』や『若き芸術家の肖像』のような私小説の純文学作品もあり、最後の『氾濫』『変容』『発掘』三部作という、純文学と通俗小説の間を狙ったものもある。伊藤ほど、純文学だけ書いていても生計は成り立たないということを知悉した人もなかったろうと思うのだが、そのために東工大教授をしていたのだから、『日本文壇史』のような労多くして功少ない仕事ではなく、野口冨士男の『徳田秋聲伝』や、中野好夫の『蘆花徳冨健次郎』のような適度にまとまった仕事をすべきではなかったかという気がする。何でも引き受けるから重宝がられて仕事が持ち込まれるのだし、川端の側近としてうまくやった人でもあるのだろう。私はこの日記を読んで、伊藤が藝術院に入ったりして、天皇について別に何も考えていないらしいことに驚いたが、この日記もまた他人が見ることを意識したもので、本心は分からない。考えてみると、伊藤の『火の鳥』や『氾濫』について、批判はあったが、「通俗的」という言葉が使われたことがないような気がするのは不思議なことだ。
あるいは妻・貞子の精神不安定な様子が繰り返し書かれており、それは伊藤の浮気を懸念しておかしくなっているのだということは、曽根博義の『伝記伊藤整』の、若いころの伊藤の浮気者ぶりを見れば分かるし、その犠牲者の一人として左川ちかがいる。晩年にも、水商売の女と浮気をしようとしていたことは、弟子の堀川潭『伊藤整氏との三十年』を読むと分かる。そのことは、やはり激しく女にもてたロレンスの作品を翻訳していたことと無関係ではないだろう。そのことは、伊藤の小説における恋愛が、「成立している恋愛」であり、通俗性は持つがのちのちまで読まれない運命にあることと無関係ではない。しかし、もともと英文学者であった伊藤は、このころにはまったく英文学からは疎くなっていて、私があっと思ったのは、文壇長者番付を見て、「河村重治郎」という名前を知らないと書いてあったところで、これは研究社の大英和辞典の編纂者で、伊藤整はそれを知らないほどに英文学からは遠ざかっていたのか、と思う。
最後の二巻くらい、六十歳を過ぎた伊藤は、盛んに自分の体調を気にし、ガンを恐怖している。この日記には出てこないが、伊藤が医者でもある作家に、ガンはどれくらい治るか訊いた文章も記憶にある。だが、それでいてタバコはひっきりなしに喫っているし、今とは違うのか健康診断を受ける様子もなく、読んでいてけうといが、これは内田百閒の日記を読んでいて、百閒がしょっちゅう喘息の発作を起こして苦しみ、「喘息タバコ」なる怪しいものを喫しているのを思い出させる。
思いがけない人の名前も見出す。磯田光一と富田三樹が「日本読書新聞」からインタビューに来たとあるが、富田三樹は三木卓の本名である。私の師匠だった鶴田欣也も、トロント大学教授として一度会って、トロントへ来てくれるよう頼んで断られている。当時鶴田先生は三十六歳くらいだろう。
解説は英文学者として後を継いだ次男の伊藤礼だが、その伊藤礼も『狸ビール』からすでに三十年、八十九歳になっているのが茫々たる年月の流れを感じさせる。