桐野夏生の『IN』(2008)は、桐野自身の編集者とのダブル不倫を振り返りつつ描き、その間に、タマキという名になっている女性作家が、島尾敏雄の『死の棘』の愛人の正体を探っていく疑似私小説である。『死の棘』は、もとより長編私小説の傑作である。作中では緑川未来男の『無垢人』となっているが、この題名はヴィスコンティの『イノセント』に倣ったものか。島尾の年齢や、子供のことなどは微妙に変えられているが、妻がまだ生きているというあたりはそのままで、その探訪のさなかに、かつての不倫相手の編集者がくも膜下出血で急死する。これは2005年11月のことだ。その後、2007年に島尾ミホが死ぬと『IN』の連載が始まる。
私は実はこの編集者氏に2002年に、藤堂志津子さんと対談した時に『小説現代』編集長として会ったことがあり、これは帝国ホテルで、編集部員二人くらいが来ていて、私のリア充時代だった。それから三年後、この編集長氏が53歳で死んだと知った時は驚いたものだ。桐野はこの不倫事件のため講談社と四年ほど疎遠になっていた。
さて、探索の途次、昔の文学仲間で今はポルノ作家になっている藤本まもるから、それは中村弓実だと教えられる。これは泉大八、畔柳二美で、その後、藤本の冗談だということになるのだが、最後に夫人を訪ねたところで、夫人の秘書みたいな元編集者から、中村弓実の事実上の夫だった男からの手紙を見せられ、やはり中村弓実だった、ということになる。
畔柳二美だとすれば、接点は新日本文学会である。二美は戦争中に夫を亡くし、その後年下の中野武彦という作家と暮らし、1965年に53歳でがんで死んでいる。54年の『姉妹』が毎日出版文化賞を受賞して映画化もされ、私が中学生の頃に少年ドラマシリーズにもなった。佐多稲子に師事しつつ、はっきりした左翼作家にはならなかった。今では忘れられたに近い作家だろう。
私は興奮してあれこれ調べたのだが、どうもこの畔柳二美説に触れた文章が見つからない。『IN』を論じた原善、辻本千鶴の論文にも書いてなく、『週刊金曜日』の陣野俊史の書評では「書いたらスキャンダルになる」とあった。しかし50年も前に死んだ作家のことでスキャンダルになるか。
だが実は『新潮』に連載されている梯久美子の「島尾ミホ伝」で、その女性は「現在の会」にいた、作家志望だったが小説を発表したことはない市井の人として明らかにされていた。『現在』の五号に評論を書いているというから、調べれば名前も分かるはずだ。つまり畔柳二美、というのはやはり泉大八の冗談だった、ということになる。