山梨県立文学館から送られてきた『谷崎潤一郎展』の図録に、武藤康史の「根本絢子の文体」という奇妙なエッセイが載っている。なおこの図録にエッセイを寄せているのは、千葉俊二、明里千章、武藤、柴田翔で、千葉、明里はいいとして、あとの二人は「?」である。柴田なんか、『細雪』以外の谷崎の作品には興味がない、と書いている。
それはさて、奇妙な、とはいえ谷崎を知る人なら、ハハーンと気づくであろうが、これは丸谷才一の「谷崎松子の文体」をおちょくったものである。根村絢子は今も存命の丸谷才一夫人で、東大英文科卒、若いころは劇評を書いていた。「谷崎松子の文体」は、1968年『風景』新年号に丸谷が書いたもので、谷崎の昭和初年の文体の変化は、当時人妻だった松子夫人の影響を受けているのではないかとしたもの。しかし、松子の文体にこれといった特徴はないし、松子がエッセイを書き始めるのはずっとあとだから、専門家からは、ありえない、と言われた。まあ実際ありえないので、ちょうど松子が『倚松庵の夢』を出したところだったので、ちょっとヨイショしてみたのだろう。松子は存命中人気があり、谷崎関係者の間では、「あの人、人気者ですからね」と嫌味を言われていた。武田泰淳亡きあとの武田百合子、島尾敏雄亡きあとの島尾ミホみたいなものか。いや、それより下だな。
で武藤は、丸谷が小説を書き始めるのは根村絢子の劇評が書かれたあとだから、影響を受けているのではないか、と書いているわけ。
これを読んでぴんと来たのだが、「大波小波」で南日恒太郎のことを書いたのは武藤だな。