凍雲篩雪

一、貴志祐介の『天使の囀り』(一九九八)という昔の作品を読んだら面白かった。ウアカリという不気味な猿が中心になっているが、貴志の作品はおおむね科学的なディテールがすばらしい。ところでその中に、蛇が一番よく食べるのは他種の蛇だという話が出てきて、なるほどそうかと思った。チンパンジーも、アカコロブスという猿を集団で襲って食べてしまう。
 魚でも鳥でも、多く他種の魚や鳥を捕食しており、熊などは、子連れのメス熊にオス熊が出会うと、自分の子供を妊娠させるために子供を殺してしまうが、あれは食っているのである。カマキリもコオロギも、受精のあとでメスがオスを食べてしまう。
 おそらく、初期の人類は、ネアンデルタール人を食べていたのだろう。もしかすると、それでネアンデルタール人は滅びたのかもしれない。ないし、人類同士でも食っていたことはすでに明らかにされている。
 近代ロマン派の思想は、自然と中世を美化したが、その残滓は現代においても残っており、しばしば人間は、動物や過去を美化する。過去美化の流れはとうとうと続いていて、二十世紀の人間は、現代が最も悪い時代のように思っているが、実際にはそれ以前の時代のほうがずっとひどく、戦争で死ぬ人間も多かったのである(対人口比)。
 私が十六年前に岸田秀と論争した時も、岸田が前近代幻想と動物幻想に陥っていると感じたもので、前近代幻想のほうはその後ようやく下火になりつつあるが、動物幻想だけはまだまだ根強いらしい。初期の人類は、近親相姦と人肉食を行っていて、行っていたからこそタブーができて、一万年ほど前に現在の人類の道徳のようなものができたのであろう。
 過去においては、メンデルの法則以前から、多く人は血の意味を信じ、つまりは遺伝を信じて、遺伝でないものまで遺伝に帰したものだが、戦後の平等思想で、人間には無限の可能性があるなどと言い、遺伝を無視しようとした。いま再び、科学的に、遺伝についても、生物としての人間についても、考え直されるべき時なのであろう。
二、以前、佐々木邦の初期作品『いたずら小僧日記』について、当時池坊短大教授だった堀部功夫氏が、これの原本は『Bad Boy's Diary』として米国で出たものだとした(一九九一年)のを、その作者がメッタ・ヴィクトリア・フラー・ヴィクターだという論文を書いたのだが(二〇〇四年)、堀部氏が論文を集めた『近代文学と伝統文化 探書四十年』(和泉書院 二〇一五)を見たら、同論文の「付記」に、私と石原剛が堀部氏の論文に触れて、さらに原作者がヴィクターだと指摘したとあり、「優れた研究者とのキャッチボールは私の夢想する学界ユートピアの実現で有頂天になる」とあった。
 その前に、鴻巣友季子の『明治大正翻訳ワンダーランド』(二〇〇五)と澤入要仁に黙殺される、とあるのだが、澤入氏のほうは、一九九五年の科研費論文で、当時はインターネットも普及していないし見落としたのだろうし、それどころか私が澤入氏のほうを知らずに無視してしまったことになる。この場を借りてお詫びする。ただし鴻巣のほうは二〇〇五年なので、あまり言い訳はできない。
 ところでこの堀部氏の著書は大冊で、論文集である。近代文学に対する前近代文藝の影響関係を論じたものが多く、鴎外「杯」、芥川、太宰、井伏鱒二織田作之助稲垣足穂、内田百�瑶など対象は多岐にわたる。だが考察は文献を博捜し、徹底して実証的である。百�瑶の「件」などは、百�瑶の創造だと思っている人もいるようだが、それ以前から「クダン」伝説は存在した。なお鴎外の「杯」は、私は以前から、西洋列強に対する日本の立場を示したものだと思ってきたのだがそういう説はないようだ。ともあれ、こういうのがあるべき文学研究の姿だと私は思う。作品だけ読んで「分析」と称して感想文みたいなものを書くのは学問ではない。
三、梯久美子が『新潮』に連載していた「島尾ミホ伝」が『狂うひと 『死の棘』の妻・島尾ミホ』(新潮社)として本になったが、これは島尾敏雄の浮気相手を突きとめたという点で功績である。私としては、題名は『島尾ミホ伝』のままのほうが良かったと思うが、私小説が迫害されている中で、『死の棘』だけやたらと人気があるのは、やはりミホが長生きしてその巫女じみた姿で知られていたからだろう。私は島尾敏雄には興味があるが、ミホには大してない。
 尾崎一雄は、「芳兵衛」こと松枝と結婚する前に二、三年結婚していた女がいた。これは「馬酔木」「おしゃべり」「世話やき」などに書いてあるが、『あの日この日』にも書いてあり、尾崎がこの件について書かなかったと書いている川崎長太郎に抗議している。相手は、「ドメニコ喫茶店」の店主だった「S女」とある。だがいくらかだらしのない女だったか、尾崎が暴力を振るうので、作家の坪田勝(一九〇四‐四一)が同情して、坪田とできてしまい、尾崎が志賀直哉を訪ねて奈良に行く時にはそれが分かっていて、女もあとから来るのだが打ち明けられず、尾崎が帰京して話をつけることになる。ところが女は坪田とではなく、私立大学教授のO氏と一緒になり円満に暮らしているという。
 『尾崎一雄全集 第十五巻』の年譜を見ると、ドメニコ喫茶店というのは、直木賞候補にもなった戸川静子がその姉と一緒に経営していたとある。戸川静子(一九〇六‐九〇)は戸川貞雄(一八九四‐一九七四)の妹だから、貞雄の妹で長女ということになり、すると「O氏」は法政大教授の岡本成蹊(一九〇五‐八八)ということになる。貞雄の子が菊村到戸川猪佐武だから、同じ芥川賞作家である菊村は、尾崎の義理の義理の甥ということになろうか。あとイタリア文学者の岩崎純孝も、貞雄の弟である。
 『あの日この日』には、「S女の、女権絶対家庭の長女といふ生れと習性はどうにもならぬらしく」とあり、「O氏」は「坪田と同じく齢下の男だつたが、(略)朴訥重厚な感じの人物だつた。『あたしの今度の恋人、見てよ』といふS女の言葉に、呆れもせず『よしよし』とうなづいて、その人物に会つた。変な話だが、Oといふその人物を見て、『これならいける』と私は思つたのである」「もう四十年経つ計算だが、実に幸なことに、この夫婦はさしたるいざこざも起こさず、現に健在である。O氏は某私立大学の教授をしてゐる」。岡本成蹊について調べようかと思ったら、近所の図書館に著書『戸隠日記』という随想集があったので、借りて読んでみたら、まるで凡庸だったのでやる気をなくした。多分、「よし江」という名であろう。
 戸川貞雄は右翼作家だったから、弟の岩崎純孝もムッソリーニ関係のものの翻訳などしていたし、息子の戸川猪佐武も『小説吉田学校』などを書いている。岡本成蹊も、その当時、戸川一家として文壇と何か関係があったようだから、誰かこの一家について調べてほしいものだ。