英国の哲学研究者でレズビアンのキャスリーン・ストック(1972?-)が2021年に著わし、トランス差別的だとして勤務先のサセックス大学を辞職する羽目になったという著書『マテリアル・ガールズ』を読んだ。2024年9月の刊行だが、それまでのアビゲイル・シュライヤーの本や『情況』の時のような炎上騒ぎにはなぜかならなかった。訳者は中里見博で、解説は千田有紀さんである。
実のところ、これはちょっと難しい本で、というのは、必ずしも一方的にトランス運動家を批判するわけではない、中間派でも狙っているのか、と思われる書きぶりだからだが、千田さんの解説によると、そのように学問的に精緻にトランス理論の欠陥を突いたからこそ「キャンセル」されたのだということになる。
第五章の最後で著者は、自分はトランスジェンダーの人々を祝福している、と書いて、自分が反トランスでないことを宣言しつつ、次の章で、性別変更について「フィクションに没入している」という独特の解釈をしている。私はカナダ留学中に、演劇の教授から、なぜ観客はそれが芝居だと分かっているものに感情移入するのだろうと聞かされて、今なお疑問だが、これについては心理学的に解決はついているのだろうか。ところでこの「フィクションに没入」のところはトランス運動家に批判されたらしく、訳者解説で中里見が、「性自認」をフィクションだと言っているのではなく、「性別変更」をフィクションだとしているのだとしている。もっとも性自認と性別変更を分離する科学的根拠は不明で、中里見自身がどう考えているのかも分からない。私は性自認もフィクションだろうと思う。(あとで考えたが、ここで「性自認」といっているのは、生物学的性とは違う性のことなんだろうが、もし生物学的性と一致するのまで「性自認」といっているとしたら、「性別変更した性自認」がフィクションだということになる。だがまさか生物学的性と一致した性自認がフィクションだとは誰も思わないだろう)
最後の部分で著者は、トランス批判的なグループを、ラディカル・フェミニストとジェンダークリティカル・フェミニストに分け、トランス運動に協力しているのを第三波フェミニストとしているが、最初の二つが区別できるのか、その根拠は分からない。その上で、双方に対して、人格否定的な攻撃はやめるよう勧告しているのだが、私にはむしろ問題は行政の動きのほうであり、フェミニスト陣営内での駆け引きではないので、いくぶんピントがずれた提言のように見えた。なので、これは難しい本である。特にドイツやイスパニアでセルフIDが施行されたあとでは、暢気な感じすら与えるし、微温的にすら感じられる。それが、あまり売れていない、アマゾンレビューも二つしかついていない理由だろう。もっとも著者は真面目な人らしく、学者が新規性を追って世間の話題になろうとすることに禁欲的なわけだが、その姿勢自体が、ポストモダンやジュディス・バトラーへの批判になっているともいえる。
(小谷野敦)