音楽には物語がある(39)ただの歌詞じゃねえか(2)「中央公論」三月号

 『ただの歌詩じゃねえか、こんなもん』というのは、サザンオールスターズ桑田佳祐の著書の題名で、一九八四年に新潮文庫オリジナルで出たものだが、中身は自身の作った歌詞集である。なお「歌詩」であって「歌詞」ではないので、あいまいが入っていない検索だと出てこない。

 私の先輩にあたる沓掛良彦先生は、近世狂歌が好きで、数年前には、もはや小説は読まないことにしたと言うほどの「詩」好きで、枯骨山人という戯号をつけていたのだが、先日『塵芥集―一夜の詠 茂原才欠(もはらさいかく)短歌大矢数』(思潮社)というのを「小湖津完爾」の名で刊行し送ってきた。もう十五年くらい前だが、「日本ってのは不思議な国で、小説書いて出世するんだからなあ」と、詩の地位の低下を嘆いていたが、西洋でも十八世紀から小説の世紀になって次第に詩の地位は低下してきたし、逆に日本でも今なお藝術院あたりでは詩を書く人のほうが評価が高くなる傾向がある(富岡多恵子三木卓など作家でも詩人でもある人が選ばれやすい)。

 以前NHKで三年にわたって放送された司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」は、ドラマとしては私は評価しないが、エンディングの久石譲による曲が好きだった。だが、私が好きなのは第一部で流れた女声スキャットだけの歌詞のないものだったのだが、今ではYouTubeでは歌つきのものしかなくなっており、私は歌詞のないものを求めて白いジャケットの総集編CDを買ったのだがなく、NHKに問い合わせのメールを出したのだが返事もなく、この文章のゲラで初めて、青いジャケットの総集編に入っていることが分かり、世間の人はやっぱり「歌詞」が好きなんだなと思う。(もっともこのスキャットサラ・ブライトマンで、アマゾンレビューではこのスキャットが評価が高かったことは言い添えておく)。

 もちろん私にも、歌詞が気に入った歌というのはないことはない。「ボヘミアン・ラプソディー」とか、エルトン・ジョンの「クロコダイル・ロック」とか、富野由悠季井荻麟の名で作詞したアニメの挿入歌とか、いろいろある。だが私が嫌なのは、短い歌詞、あるいは「詩」に、「深み」とか、「人生の本質」などを見出してしまう世間一般の行動なのである。

 たとえば芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」に「人生は一行のボオドレエルにも如かない」というものがあるが、そんな馬鹿なことがあるはずがなく、私はこういうことを言うから芥川が嫌いなのである。こういうバカさは、インテリからバカにされ「便所の神様」などと言われる相田みつをみたいなものである。

 「一行のボオドレエル」に「深み」を見出してしまうのは反知性主義とも言うべきもので、十七世紀のヴィーコは、歴史や法も元来詩であるという立場からデカルトに反対したと把握されるが、それはデカルトが正しいのである。私は伝記をよく書くが、時おり「深みがない」という批判を一般読者から受ける。私は「深み」などないように書いているからで、伝記も歴史もひたすらな事実の集積であって、「深み」などというのは、短い言葉で人生を知った気になりたがる若者が求める浅薄な料簡に過ぎず、そう簡単にものごとは分かるものではなくて、歴史にせよ科学にせよつらくて長い勉強によってようやく見えてくるものなのだが、「詩」の好きな連中というのは、それを十四行くらいの詩で分かった気になりたがっている、その根性がいけないのである。

 『文學界』一月号に松浦寿輝が書いていたエッセイによると、ラジオに出た谷川俊太郎(九〇歳)が、女性アナウンサーから詩について訊かれて、「美辞麗句」「巧言令色」と答え続けたというが、これは実に詩をよく分かった人の言葉だと思った。