音楽には物語がある(36)戸川純 「中央公論」12月号

 つらつら考えると、私の大学二、三年時分の生活というのは、実に情けない空虚なものだった。つきあっている女はいないし、大学の授業は面白くないし、歌舞伎を中心に演劇を観に行ったり、テレビで録画した映画を観たりはしていたがそれも孤独で、小説が書けなかったのも無理がないと思う。実際、若くして小説を書く人というのは、無頼でももっと充実した生活をしているものだ。

 当時松田聖子中森明菜がはやっていたが、私の音楽の趣味はクラシックで、デヴィッド・ボウイとかにもさしたる興味はなく、同世代の人間からも浮いていて、最近同年代のおじさんはロックが、とか言われても、自分は違うなあと寂しく思うばかりである。

 そんな大学時代、戸川純だけは、ちょっとした機縁から割と欠かさず聴いていたのだが、いま考えるとこの戸川純好きは、唐十郎が好きだったのと同じアングラ趣味だったらしい。

 最近新装増補版が出た『戸川純全歌詞解説集』(pヴァイン)は戸川の著で、戸川純が割と自分で歌詞を書いていたことと、戸川がけっこうなインテリであることが分かり、私が当時戸川純に魅力を感じていた理由も分かる。「玉姫様」の歌詞で「第六感は冴えわたる」と書いたのを、作曲した細野晴臣が「第」をとってしまったので、ただの「六感」になったが「もう何も見えない、もう聞こえない」と言っているのだから二感はもう使えていないと書いてあるのなんか、おおっとのけぞった。

 シングルで発売された「レーダーマン」がヒット曲だったが、これはハルメンズの一九八〇年の曲をカバーしたもので、作詞は「フォックス」となっている。だがこの曲はむしろ八三年から始まったニューアカ・ブームの中で、はやりの思想書や映画・演劇を追いかける私ら当時のニューアカオタク学生への痛烈な風刺になっていて、ぐさぐさ刺さってきたものだ。当時は『ぴあ』を買って情報を入手するのだが、街中で『ぴあ』を広げるのは恥ずかしいことだとされていた。

 だがあの時代を、バブルとセゾン文化の軽薄な時代と言うのはやさしいが、私などにはあの中でせいぜい生きがいを感じて生きる以外にはできなかったというのも実情である。

 次のアルバムが「極東慰安唱歌」で、これも私には面白いものだった。戸山小学校の校歌や応援歌とか、「極東花嫁」とかみな好きだった。細野晴臣とかも戸川に曲を提供していたが、当時人形劇「三国志」での細野の曲も好きだったから、なんで「風の谷のナウシカ」の没になった主題歌みたいのを作ってしまったのかと思うと、内容が細野に合ってなかったのだろうと思う。

 「隣りの印度人」は「玉姫様」に入っており、佐伯健三の作詞だが、のちに「みんなのうた」で戸川が歌った「ラジャー・マハラジャー」の元になったものとも言える。だがこの曲の意味はよく分からない。日本に十年住んでいるインド人を描いているが、シク教徒が巻くだけのターバンをインド人がみな巻いているように歌っていたりするから、これはインド人に対する日本人のステレオタイプな考え方を風刺した曲ではないかという意見を当時聞いたが、真相は分からない。

 次のアルバム『好き好き大好き」まで聴いていたが、そのあと戸川純からも遠ざかった。今回「全歌詞解説集』を読んで、戸川純が恋愛をし、傷つき苦しむ若い女性であったことに初めて気がつき、ああこんな鈍感な若い男だったんだ私は、と改めて若いころの自分のダメさに気づいたのであった。