音楽には物語がある(65)作詞家の条件  中央公論・5月号

 私が若いころ、歌謡曲好きの友人が「作詞をして当たったらいいなあ」というようなことを言っていた。作詞家というのがどれくらいもらえるのか、歌がヒットするとそれだけで儲かるのか、その後仕事が多く来るから儲かるのか分からないが、何しろ一つの歌の作詞は一見したところ長編小説を書いたりするよりは簡単そうなので、私も「そうだなあ」と思ったが、作詞には新人賞はあることはあるようだがそれで作詞家になった人は多くはなさそうだし、作詞家の弟子になるとか、放送業界へ入って作詞を売り込むとかそういう手段しかないだろう。「なるにはシリーズ」には、なぜか『作詞家になるには』という本はない。

 ふと、阿久悠が書いた『作詞入門: 阿久式ヒット・ソングの技法』というのが、岩波現代文庫に入っているのに気づいた。これは1972年、阿久が作詞家として名をあげ、これからさらに山本リンダフィンガー5ピンク・レディーの作詞で大ヒットメイカーになる前の本だが、近所の図書館には元本も文庫本もなかったので、他区から取り寄せた。中に、あなたは作詞家に向いているかという箇条書きで、こういう人は向いている、という部分があったが、全部当てはまらないと向いていないというもので、当然のごとく私は向いていなかったが、中に、ギャンブルにのめり込まない、というのがあった。

 しかし、一つだけ条件で書いてないものがあるな、と思ったのが、照れない、恥ずかしがらない、というもので、私は、ポピュラーミュージックの歌詞というのは、恥ずかしがらない人でないと書けないだろうと思っている。今はちょっと違うかもしれないが、歌謡曲全盛期の70年代の歌詞なぞ、ある種の羞恥心を捨てなければ書けなかったようなところがある。私はある時期、ポピュラーソングの歌詞というのは、それらしい単語を並べてつないでいけばできるんじゃないかと考えていたことがある。「よこはま・たそがれ」(山口洋子作詞)などは、それを実際にやってヒットさせた曲で、批評性のある歌詞だったともいえるだろう。

 物語性のある歌詞もあるが、それも恥ずかしいといえば恥ずかしい。小椋佳の「さらば青春」などは、現代詩風で、さほど恥ずかしくはないが、題名が恥ずかしい。

 別に作詞をバカにしているわけじゃなく、小説でも、ある種の小説は恥ずかしさを克服して書いてこそ売れる、というところがあるのは否めないし、まあ差しさわりのない古いところでいえば、小島政二郎という作家は、『主婦之友』に1935年から『人妻椿』を連載し、大ヒットして何度も映画化されたが、のちに小島は、顔を赤らめつつ編集者の言うがままに書いた通俗小説、と書いている。

 しかし、普通の人から見たら、田山花袋の「蒲団」とか近松秋江の「黒髪」とか、自分の身に起きた恥ずかしいことを描く私小説作家のほうがよほど不思議な人びとで、歌謡曲の作詞家や通俗小説家など、作りもののこっ恥ずかしい恋愛ばなしを書くほうがまともな人間なのだろう。

 「新世紀エヴァンゲリオン」の主題歌として知られる「残酷な天使のテーゼ」(及川眠子作詞)なども、「言葉を並べてつないだ」系の歌詞だが、私はもともと「詩」すら作れない人間だが、作詞のほうも、単語を並べるまではできるかもしれないが、恥ずかしさを克服できないだろうから無理だろうと思った。

 しかし、阿久悠も、鼻歌で適当に曲を歌いながら作詞するというし、シンガーソングライターというのも多いし、作詞というのはもともと音楽をやっている人がやることが多く、北原白秋の時代とは違って、音楽と無縁に作詞ということはあまりないんじゃないだろうか。