音楽には物語がある(38)ただの歌詞じゃねえか(1)「中央公論」二月号

 中川右介さんから、世間でクラシックが苦手だと言う人は、歌詞がないから分からない、と言うと聞いて驚いたことがある。クラシックだってオペラは筋がありセリフがあるし、リートのように歌詞のあるものもあるが、つまり彼らは交響曲とかが、歌詞がないから分からないと言うらしいのである。

 今ではJ-popなどという歌謡曲について、私は歌詞と曲をあわせて一つの娯楽で、曲なしで歌詞だけ鑑賞するものではないだろうと思ってきたが、中島みゆきの歌詞集が出たりする頃から、歌謡曲の歌詞を「詩」として評価する風潮があらわれ、それがボブ・ディランノーベル文学賞受賞につながったのであろう。桑田佳祐も『ただの歌詩じゃねえか、こんなもん』という歌詞集を新潮文庫で出しているが「歌詞」ではなく「歌詩」となっている。

 中世のヨーロッパにもトゥルバドゥールやミンネゼンガーの歌詞はあり、日本でも『梁塵秘抄』や『閑吟集』に集められた今様、小歌などは、本来節をつけて歌うものだったから、歴史的にはこのことはさほど驚くには当たらない。

 しかし、一部の(ないし相当数の)若者の、歌謡曲(と総称することにする)の歌詞に対する偏愛は、ちょっと驚かされる。たとえば宮崎あおいが「アース ミュージック&エコロジー」という衣服会社のCMに出て歌っていたことがあったが、あれは「ブルーハーツ」という歌謡集団の歌の歌詞で、若者はああいう歌詞が大好きなのだという。なお、「若者」と便宜的に言っているが、私は自分が若いころから、一部の若者がひどく「歌詞」が好きであることに違和感を感じていた。

 もっともそれは、世間でいわゆる「文学」と思われている詩歌を私が重んじて、歌謡曲はバカにしているということではなく、私は詩歌は苦手なのである。日本の詩歌で高村光太郎とか斎藤茂吉とか尾崎放哉とかをいいと思うが、それ以上に、特に詩歌にのめり込むということができない。これは詩歌に限らず、世間でもてはやされる芥川龍之介アフォリズムとか、短い寸言にアホらしさを感じることのほうが多くて、せいぜいあまり大したアフォリストではないラ=ロシュフコーの「死と太陽は長く見つめてはいられない」というのが本当だなあと思うくらいで、何しろツイッターの時代だから多くの人が「寸言」好きになって、ある寸言にたくさん「いいね」をつけて「深い」とか言っているのが嫌で、それくらいならYou Tubeで、二億年後の地球とか、恐竜が絶滅した時とか、人間がいなくなったら地球はどうなってしまうかの解説動画とかを見ているほうがずっと面白いのである。

 私の文学趣味は、小説とか戯曲とか、筋のあるものが中心で、だからホメロスのような叙事詩や、「走れメロス」の原典となったシラーの「人質」みたいな詩は好きである。あるいは「ボヘミアン・ラプソディー」とか、コルリッジの「クブラ・カーン」とか、関心をかきたてられる詩というものはあるが、クイーンのそれ以外の曲の詩には別に関心がない。特に私が嫌になるのは、恋愛の機微みたいなものが盛り込まれた詩を若者が嬉しがっているさまで、それも「両想い」の場合であり、人ごとながらこっ恥ずかしくなる。

 「デンジャラス・マインド」という映画で、ミシェル・ファイファーが演じる元海兵隊の高校教師は、不良の集まりのクラスを受け持たされるが、ディラン・トマスボブ・ディランの詩の比較の課題を出して生徒たちの人気をかちえる。その後ボブ・ディランノーベル賞をとったが、私は「へええ、不良ってそんなに『詩』が好きなんだ」と呆れたりしたものだった。(この項続く)