音楽には物語がある(終)夭折ぎらい  「中央公論」12月号

 以前触れた團伊久磨の『好きな歌嫌いな歌』には、荒井由実(今の松任谷由実)に触れて褒めた章が二つあって、息子のレコードで聴いたと書いてあった。古典音楽家の團がそういうことを書くのは意外だったが、別に若者に媚びたわけではないらしく、ニューミュージックの人が概して好きだったようで、「どうやらほんの数人の優れた人は除いて、殆ど行き詰まっているように見える日本の職業的な作詞家やメロディ・ライター(略)の作る商業主義のべたべたした歌には厭気がさしていて、僕自身の心が、レコード会社の汚れてじめじめした企画室などから生まれたもので無い歌を求めているからだと思う」とあり、荒井由実や上条恒彦の歌をいいと思うが、彼らもそのうち商業主義にからめとられていくのではないか、と書いている。上條はともかく、ユーミンに関してはその通りになった気がする。

 私はユーミンの歌というのは「瞳をとじて」と「春よ、来い」以外は好きではなく、むしろ中島みゆきが好きなほうだが、もちろん全部の歌を聴いたわけではない。若いころ、あまり人気があるので、当時はYou Tubeで試聴することなんかできないから、二枚くらいCDを買ってきて聴いたのだが、全然ダメだった。

 そこで團伊久磨が特に好きな歌としてあげていたのが「ひこうき雲」だったのだが、これはどうも夭折した少年を歌った歌らしい。これも私の苦手な領域である。世の中には、夭折が好きな人というのがいて、私の大学時代の友人でも、30歳になった時に、「夭折するはずだった」なんて言うやつがいて、正気かと思ったものである。

 友人が自殺した、などという話の出てくる小説も嫌いで、村上春樹の『ノルウェイの森』などは二人も自殺しているし、とても受け付けない小説だった。サリンジャーの「バナナ魚日和」という短編について、自殺したのは誰かということを一冊の本に書いて小林秀雄賞をとったのもあるが、私はだいたいこの「バナナ魚日和」が面白いとも何とも思わないし、自殺したのが誰かなんてまったくどうでもいいので、読まなかった。  夭折した文学者や藝術家の好きな人というのもいて、夭折したというだけで好きなんじゃないかと思えるケースすらあるが、私はあまり早く死んだ文学者などは、そんなに若くして死んだのでは中身も大したことはないだろうとか、若い頃のきらめきだけだろうと思ってしまう。樋口一葉なんか24歳で死んだが、確かに「たけくらべ」は名作と言えるかもしれないが、もし一葉が長生きしたら、凡庸な通俗小説作家になっていただろうということを、私は『美人作家は二度死ぬ』(論創社)という小説に書いたことがある。一葉はこないだまで五千円札だったが、福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』に、野口英世と並べて、樋口一葉も五千円札になるほどの人物か疑わしい、と書いてあったので、おお、と感動したことがある。

 夭折というのは1970年前後にはやったことがあって、漫画やドラマで難病で死ぬ女が出てきたり、高野悦子の『二十歳の序章』が話題になったりしたもので、ほかにも自殺した原口統三の『二十歳のエチュード』とか、自殺した久坂葉子とか、病死した大宅歩の遺稿とかが割と若者に人気があったりした。自殺というのも人気があるようで、西部邁など、最後は老年に至って妻のあと追いのように自殺したが、50歳のころから、ドストエフスキーの『悪霊』のキリーロフの自殺論に傾倒していた。私はそういう趣味にも、興味はないのだ。

小谷野敦