「安曇野」の思い込み

臼井吉見の『安曇野』という長編小説がある。筑摩書房の『展望』に連載されたもので、全五巻、ちくま文庫版では一冊が450ページ以上ある大作である。谷崎潤一郎賞を受賞している。

 臼井は長野県安曇野の出身で、筑摩書房の創業者・古田晁とともに上京してきている。だから、中途半端に事情を知った人は、この題名と大作ぶりから、これを臼井の自伝的小説だと思い込んでしまう。「安曇野の美しい自然に抱かれて育った感受性豊かな少年・浩一・・・複雑な家庭環境にめげず、文学に開眼し、性に目覚め、浩一の人生は大きくはばたこうとしている」みたいなものを想像するのである。

 ところが『安曇野』はそういう小説ではなく、明治期に中村屋というパン屋を作った相馬黒光と、その黒光に片思いしてもだえていた荻原守衛、その守衛を翻弄して楽しむ黒光を描いた愛欲歴史小説なのである。勘違いしたまま、文章を書いてしまった人もいる。