岩波文庫では「作」と「著」を区別していることは、気づいていない人も多いだろう。小説や詩歌なら「伊藤左千夫作」で、評論や学問なら「和辻哲郎著」になっている。同じ夏目漱石でも、小説は「作」で、『文学評論』は「著」である。『硝子戸の中』も「著」なのだが、随筆となると難しいところで、瀧井孝作の小説など、ほぼ事実なので、「作」でいいのか、と思う。
「編」となるとさらに面倒である。「斎藤茂吉編『長塚節歌集』」なら、長塚の短歌の中から斎藤茂吉が選んで編纂したもので、これが一番明快な「編」。で「編著」となると、小谷野敦編著『翻訳家列伝101』なら、私がほか二名ほどとともに執筆したもので、私が主たる著者なのでこうなっている。「鶴田欣也・平川祐弘編『『暗夜行路』を読む』なら、鶴田先生がコーディネートした国際学会の論文集で、出来上がってから平川先生の名を借りている。実際論文集では、完成してから、誰を編者にするか、と相談することもある。編者が二人いる論文集などは、だいたいこんな感じで作られる。
さらに、著者が一人いて、さらに編者がいる本というのがある。これが、著者が物故者だと、死んだあとで原稿を編者が整理して刊行したものである。だが、存命でも、どういうものか「真宗大谷派宗務所出版部編」となっているのがある。「東本願寺伝道ブックス」というのはみなこれで、しかも出版者も「真宗大谷派宗務所出版部」だから、出版者が編集して出版したことになる。だがたいていの書籍は出版社の編集者が編集するのだから、これは余計であろう。それとも、ここには真宗大谷派の教えにそむくことは書かれていないということであり、検閲でもしているのであろうか。
一方、辞書などはたいてい「編」である。ところが、実際は個々の項目を書いている人がいるはずで、「金田一春彦編」とかなっているのは執筆者代表という意味であろう。辞書の場合は、先行する辞書からそのまま定義を持ってくることもあり、そういう意味では「編」だなと、皮肉な考えも浮かんでくる。漢文の世界では「選」となっているのがあるが、これは数多くの漢字の中から字を選んだという意味だ。
私が高校生の時に使っていて今でも座右に置いている京都書房の『新修国語総覧』の文学史年表は、最後のところが変である。一九七四年のところで、丸谷才一の「横しぐれ」の次に「『安曇野』対談」という、臼井吉見と平野謙の対談があり、七五年は林京子の『祭りの場』の次に平野謙の『さまざまな青春』がある。つまり平野謙シフトで、編集委員のうち猪野謙二が平野好きだったのだろう、文学用語事典のところの「私小説」では、私小説の最初を大正二年の近松秋江『疑惑」と木村荘太「牽引」としている。
しかしそれでも、その対談が『文芸批評家の道 平野謙対談集』(講談社、一九七五)に入っていたので読んでみたら面白かった。臼井が、これほど社会主義に入れ込んでいたとは思わなかった。石川三四郎が訳したエリゼ・ルクリュの『地人論』の話が出てくるが、これは最近、『アナキスト地人論 エリゼ・ルクリュの思想と生涯』(書肆心水、二〇一三)として出ているので、これものぞいてみたが、『宮本賢治対談集』に臼井との対談が三つも収められていて、私にはかねて、『事故のてんまつ』事件の時に、解放同盟がなぜ臼井を攻撃したのかが謎だったのだが、臼井が宮本顕治寄りだったとしたら、社会党系の解放同盟が攻撃した理由も分かるというものだ。どうも『事故のてんまつ』事件については、公正に評する人がなく、というのも川端家側にいる川端研究者が、何が何でも臼井を攻撃せずんばやまじという姿勢でいるからである。
図書館の複本問題、つまり「無料資本屋」問題は、また新たな局面を迎えているが、私は、ベストセラー作家の売り上げのことは、別段自分が心配すべき筋合いではないし、仮に図書館に置かれなくなったら、何百件という予約を入れている人たちが、買うということはなかろうと思う。ただし、図書館は高価な学術書をなるべく購入してほしく、そのベストセラーを多量に買うカネでもっと学術書が買えるだろうと思う。その点については、図書館側から納得のいく説明を聞いたことがない。
先日、図書館で予約した本が借り主から戻ってこないということがあり、十月のことだったのだが、返却期限は八月だった。じっと待ってようやく戻ってきたのだが、公共図書館から借りた本をいくら延滞しても、大学図書館のようにペナルティはつかないし、時には借りたままどこかへ行ってしまえば、警察に追及させることもできないというおかしな状況である。返ってこないと図書館側で欠本扱いにしたりするのだが、図書館の本を返さないなどというのは立派な窃盗罪なのだから、何らかの対策を講じるべきではないのか。もとより図書館は借り主についての情報を漏らしてはならないわけだが、そうなると大して図書館に用事のない者の借りっぱなし勝ちである。
もっとも、民事裁判で勝っても時にはまったく実効性がないということがある。私はウィキペディアには困らされているので、海外でも手間をかけて訴えようかと思ったのだが、おそらく相手方は法廷に現れず、勝訴してもその結果を執行する手段がないということに気づいた。日本の法律はどうも民事の結果について誰も責任を負わないようで、これは何とかしてほしい。それが人権保護法案なのだろう。
芥川賞の候補作が発表されたので読んでいるが、今回は低調である。どれもつまらないか訳が分からない。それはそれとして、リアリズムで書かれた小説で、登場人物がいろいろ会話する中で、読んだ本や観た映画、ドラマの話題というのがほとんど出てこない。これは以前にも感じたことだが、最近の小説はそういう傾向にあるようだ。誰かが言っていたのは、いまはやりものの映画などを話題にすると、数十年後の読者が分からなくなるからだというのだが、そんなことまで考えて小説を書いている人がいるのだろうか。
往々にして、田舎の人やら一般庶民やらが出てくることの多いこれらの小説が、いかにも都会に住む作家の偽装工作めいていて、と同時に作家が、ブッキッシュな人間だと思われたくないと思っているかのようで、かなり無気味である。別に田舎の農民だろうが労働者だろうが、テレビドラマや映画くらい観るだろうに、その点だけはあたかも明治時代の人間のように描かれているのだ。それでいて、生活の細々としたところがやたらと書き込んであることが多いのは、自分は本などに興味のない健全な小市民ですよとアピールでもしたいのだろうかと思ってしまう。
推理小説の中には、これとは逆に、やたら哲学的な議論を始める類のものがあるが、大江健三郎などは、小説の中で、ディケンズの『骨董屋』や、クライストの『ミヒャエル・コールハース』、またはブレイクやエリオットの詩をふんだんに紹介する趣もあるというのに、なんでこうなのか。村上春樹は、小説の中でクラシック音楽をモティーフに用いて、そのためにそのCDが売れるくらいである。芥川賞や直木賞の受賞作となればある程度は売れるのだから、その小説の中で、作者がいいと思う著作を紹介しておいたら、そちらも売れて一石二鳥だというのに、この出版不況の中、本の題名がまったく出てこない作品を書く作者の気がしれないと私などは思うのだが、どういうわけなのだろうか。