耕治人と川端康成・補遺

「昭和文学年表」を見ていたら、1982年2月3日の「毎日新聞」夕刊に武田勝彦「文士よ高潔であれ 川端康成の名誉のために」というのを見つけた。これは知らなかったが、毎索で見ても表示されなかったので国会図書館から複写を取り寄せたら、同年2月号『すばる』に載った耕治人の「なにかに祈って、これを書く」への抗議文であることが分かった。同作は『耕治人全集 第4巻』に載っており、116pとかなり長い。

 耕ははじめ千家元麿に師事したが、千家が死んだりして、川端の世話になることが多かったが、川端の妻・旧姓松林秀子の弟の松林三八郎の誘いで、杉並区野方に土地を借りて三八郎の隣に住んだことから紛争になり、三八郎の人柄が悪く、義兄の威を借りて耕を脅かし、耕がまた神経症となったことから、川端没後、小説にそれを書いて紛争のタネとなった。最初は1975年の「うずまき」で、川端の名前は出さず、世話になった人に土地をだまし取られたと書いたが、翌月の文芸誌の鼎談に平野謙藤枝静男らが出て、これは川端のことだと藤枝が言い、立原正秋が読んで不審に思い、藤枝に訊いたら、あれは平野が言ったことだが平野に頼まれて(平野と藤枝、本多秋五は旧制八高以来の友人)自分が言ったことにした、と白状したため、立原は平野を批判し、決裂した。

 一方川端研究者の川嶋至は、翌年になって「誰もが知っていたこと」と題して、川端が耕の土地をとったということを文藝誌に書いた。武田はこれに「誰も知らなかったことー川端康成の冤罪を雪ぐ」を『文学界』に書いて、家庭裁判所の調停で、これは通路の問題に過ぎなかったという判決文を示して反論した。川嶋が文藝誌から姿を消したのはこれが原因であって、井口時男が言うように安岡章太郎を批判したからではない。ここまでは前に書いた。

 さらに耕は「赤い美しいお顔」(86年)でもこのことを書いているが、82年の「なにかに祈って…」は、川端康成氏、と実名を出しているが、全体としては、耕が川端と自分との身分の懸隔におびえる様子と、あくまで三八郎(こちらは仮名)の乱暴な態度について書いており、背後に川端がいるということは、耕の妄想として書かれており、「あとがき」でも、慎重に書いたことが明言されている。したがって、武田がこれに抗議したのは過剰反応だと言わざるをえない。

小谷野敦

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 82年の件はまだ知らなかったのだが、この