山崎豊子と橋本治

 橋本治が、山崎豊子を擁護した論というのがある。批評家は、山崎の描く人物が類型的だと言うが、人間は類型なのである、というものだ。
 どうもこれは違うのじゃないかと前から思っているのだが、たとえば事実に近いことを書いた小説を「類型的」と言う人はいまい。あるいは、類型的だと批判して、作者から、これは事実だ、という反論があることもあるだろう。
 だから、フィクションである場合が問題になるのだが、間違った類型というのがあって、これはもちろん良くないのである。つまり世間の思いこみから作り上げた類型で、私はその典型を、新藤兼人の「絞殺」にみる。これは1979年のもので、受験勉強で歪んだ高校生を描いているつもりなのだろうが、当時実際に歪んだ高校にいた私から見ると、類型的に間違っているのである。その後、進学校から来た連中もずいぶん見たが、だいたい二流の進学校の私立の男子高のほうが歪んでいて、国立高校はさほどでもない。それでも、新藤が描いたようなものとは違うのである。
 山崎の場合は、おおむねモデルがあって、取材をして書いているから、そういう間違え方はしない。その代わり、取材メモをそのまま使って盗作事件を起こしたりしている。要するに想像だけで書いた類型は間違えやすいということである。 
 江川達也が『東京大学物語』を書いた時、「あんなことがあるわけない」と批判されて、「実際にあったんだって」と言っていたが、それは東大であったんじゃなくて愛知教育大であったんだろう、と思ったことがある。