辻原登の書評集『熱い読書、冷たい読書』(2000、ちくま文庫、2013)に「大谷崎」とあって、「大」がつくのは谷崎だけだ、大トルストイとか大デュマとかいうのは同姓の別人と区別するためだ、とある。谷崎も弟と区別するためなのだが、それは丸谷才一も書いていたはずで、辻原は丸谷の弟子筋みたいなものではないのか? 謎。
『かまくら春秋』で出久根達郎が里見紝の「椿」について、あれは大杉栄の死を寓意しているのだという私の説を無視して旧来の解釈でしゃべっている。まあ説ですから無視するのは勝手だが、知っててか、知らいでか。