凍雲篩雪
 そういえば『週刊文春』五月二十九日号に、雁屋哲を揶揄する記事があったが、その中で雁屋が天皇制反対論者であるというくだりに、「あの人こそ天皇ですよ」といったコメントが入っていた。つまり独裁的だということなのだが、本物の天皇が独裁者だったことはまずない。だから黒澤明を「黒澤天皇」などと言うのは、戦後左翼が、天皇を独裁者のように言ったところから来ているので、いわば誤用である。
 『中央公論』五月号に、林晟一の「在日であることの意味 在特会の活動を奇貨として考える」が載っているが、ここで林は、在日韓国人が日本に帰化するという選択肢について否定的で、「在日は半島の国民の物語に首尾よく参入しえず、対外的責任を引き受けきれないと思われるのと同様、日本という国家の物語へ今後参入することや対外的責任を引き受けることも至極困難と思われるからである」とし、「今日、右派の擡頭を前に、日本のリベラル勢力が天皇の英知に期待するとの構図も観察されるが、『帰化』した在日はその流れに乗ろうと思えるか。そして、この国の旗を前にして「君が代」を歌えるだろうか。(略)日本人にもこれら(国旗・国歌)に忠誠を誓いきれない者がいることを示している」と書いている。
 まず私は「物語」という語の意味が分からない。これは、ポストモダン哲学というインチキが捏造した概念であり、意味を持たない。ある国の国籍を取得するということは、単にその国の国民としての権利および義務を取得するという形式的問題に過ぎず、「物語」などという曖昧なものへの「参入」など不要である。さらに後段に進むと、ではそういう日本人は、林の言う「物語」とやらに参入などしていないのだから、帰化してそのような日本人になればいいというだけのことではないかと思えてしまう。君が代を歌う義務は、一般国民には強制されていないのである。さらに「対外的責任」という語は、国家と国民の関係を誤解しているのではないか。対外的責任を負うのは国家であって国民ではなく、その国家とは天皇と公務員である。
 林のように立論していくと、日本人であって天皇でも公務員でもない私が、あたかも君が代を歌わなければならない立場にあるかのように思えて、おかしなことになるのである。たとえば、平川祐弘の『日本人に生まれて、まあ良かった』(新潮新書)が売れているが、この題名は、朝鮮半島が日本に併合されたのを見た夏目漱石が放った無道な言葉であって、平川のウルトラナショナリズムをよく表しているのだが、平川の書くものはかねて、「日本人なら俳句をたしなみ、天皇を敬愛するもので、上野の西郷さんの銅像に感動するものだ」といった、「日本人」を主語とし、そうではない日本人を排除するものだった。子安宣邦が「宣長問題」などと言っていたことがあるが、イタリア文学で業績のある平川でもこのようになるのだから、それは「問題」ではなく、常に起ることである。私は平川に、そうではない日本人もいるだろうと何度も言ったが、平川は答えなかった。そして遂に私を中傷するに至ったので決裂したわけだが、この江藤淳の友人だった人物は、外への排外主義ではなく、要するに私などを「非国民」と呼びたい国体派なのである。そういう流れに乗れないから帰化しない、という林の言い方は、あたかも日本人である私たちはそれを甘受しなければならないかのような結論に至るのではないか。帰化できない理由として、親戚の手前とかいろいろなことはあるだろうが、それをこういう風に説明されると、それはあたかも日本人がみな平川のような人間であるかのように言っていることになり、私は侮辱を感じる。