昨日に続いて、ということになってしまうが、たまたま本日、稲賀繁美編著『東洋意識 夢想と現実のあいだ』(ミネルヴァ書房、2012年4月)を見ることができた。これは日文研の稲賀主催の研究会の報告書論文集で、木下長宏、小田部胤久、佐野真由子、李建志、金田晋、古田島洋介劉岸偉といった人たちの、1887年から1957年までの比較文化的な論文を集めたもので、美術・美学関係が多い。みな優れた論文であろうと思う。だが最後に、平川祐弘の「『源氏物語』の評価と日本文化の評価‐西洋文明至上主義者チェンバレンウェイリーの隠微な論争」というのが載っていて、これが良くない。これは2008年に行われた平川の講演録だが、内容的には、既に平川の『アーサー・ウェイリー』に載っていることと同じである。
 バジル・ホール・チェンバレンは、ラフカディオ・ハーンと同年だが、長く生きた英国の日本学者で、東大で教えて名誉外国人教師となり、『古事記』の英訳もしている。王堂の号を持ち、岩波新書に『鼠はまだ生きている』という随筆集が昔あった。復刊してほしいものだ。これは、西ローマ帝国が滅びたあと、東ゴートに仕えたボエティウスが、政争に巻き込まれて投獄され、獄中で『哲学の慰め』を書いたのだが、ボエティウスはまだ生きているのかと言われて、「鼠はまだ生きている」と言ったという伝説に倣い、長命を保ったチェンバレンが、「まだ生きているのか」と言われたのでつけた題名である。
 日本語では、太田雄三の『B・G・チェンバレン』(リブロポーと)や、楠家重敏の『ネズミはまだ生きている チェンバレンの伝記』(雄松堂出版)などの伝記がある。
 チェンバレンには、『日本事物誌』(Things Japanese)という本があり、明治期日本を優れた日本学者がどう見たかよく分かる。この中に「武士道」という項目があるのだが、この題名は実はフェイクで、本来の題名は「新しい宗教の創出」である。天皇制と天皇教が近代になって作られたということを論じたもので、こういうものがあるため、この書は戦前日本では邦訳が許されなかった。
 さて平川は、チェンバレンは日本文学の価値が理解できず、『源氏物語』も理解できなかったとし、のち大正末から昭和にかけて、アーサー・ウェイリーが『源氏』の英訳を出して称賛を浴びた時、チェンバレンは面目を失ったと言う。だが、『源氏』については、チェンバレンが日本にいた明治期、芳賀矢一坪内逍遥も、わいせつだとして悪く言っていたのだ。明治から大正にかけて、『源氏』を読んでいたのは、与謝野晶子尾崎紅葉田山花袋近松秋江らで、漱石はちゃんと読んでいないし、日本での『源氏』の評価自体が低かったのであって、チェンバレンが西洋至上主義者だから『源氏』の価値を認めなかったのではない。谷崎潤一郎でさえ、最晩年にいたるまで、『源氏』がそんなに名作とは思えないと言っていた。
 私は『アーサー・ウェイリー』が出た時に、『中央公論』で書評して、そのことを指摘し、当人にも手紙を書いた。だが無視である。講演は2008年のものだが、この稲賀編著の刊行は2012年なのだから、平川は間違っていると知りつつ、この講演録を出したわけである。稲賀はあとがきで、事実上この講演には触れず、『アーサー・ウェイリー』の、平川が(おそらく意図的に)書き落とした個所を指摘して、暗に「これはダメ」と示している。