世代論とか

 私の『日本売春史』に、論者の生(没)年と現在の職が書いてあることに不審の念を抱く人がいるようだが、まあ確かに学術論文でそういうことはしないが、私としては論及した人がいくつくらいでいま何をしているのか、といったことは気になるし、一般読者としても、聞いたことのない研究者の名前をどてっと出されるより、イメージが掴みやすいと思っただけなのだがね。
 それより私は世代論というのがどうにも胡散臭く、「僕より下の世代の人は」とか括っていたりするのを見ると「いい加減な」と思うのだが、まあ確かに全共闘世代とか団塊の世代というのは否応なくある特徴を帯びているけれど、たとえば島田雅彦は私の一つ上で、原武史は同年で、瀬地山角は一つ下で大学で同学年(当時は知らず)だが、それぞれ全然違うしね。

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 高島俊男先生の文庫オリジナル『しくじった皇帝たち』で、露伴の『運命』は、原拠を訓読しただけだという論文を読んだ。2002年2月の『文學界』に載ったもので、その号には私も寄稿しているのだが、当時見落とした。ところが2005年1月の『文学』で井波律子先生が露伴の『運命』を褒めている。むろん原拠のことも書いてあるが、高島先生には触れず、露伴は原拠から適宜選択しているとある。井波先生はいま日文研幸田露伴の研究会を開いているが、私は呼ばれていないから、何をしているのかは知らない。高島先生の論を知った上で書いたのかどうかも分からない。私は高島先生も井波先生も好きなので、ちと困る。ただ『運命』については、高島先生が正しいと思う。