「女工哀史」をめぐる二冊の本

 湯浅規子の「焼き芋とドーナツ」という本をちらちら読んでいたら、これが、高井としをの『わたしの「女工哀史」』と、サンドラ・シャールの『『女工哀史』を再考する』という二冊の本をめぐって書かれた本であることが分かったので、この二冊を図書館で借りてきた。

 高井としをは、『女工哀史』を上梓してすぐ死んでしまった細井和喜蔵の内縁の妻で、その後労働運動に挺身し、戦後になって自伝的回想を出したうち、まとまっているのが『わたしの「女工哀史」』で、1980年に刊行され、2015年に岩波文庫に入った。

 これを半分くらい読んだ。高井というのは旧姓ではなく、旧姓は堀で、高井は細井が死んだあと再婚した高井信太郎の姓で、高井も戦争中に病死している。

 とにかくやたら気が強い女なのには驚かされるのだが、どうも読んでいて一抹の違和感がある。細井が死んだあと、新聞に「細井和喜蔵未亡人ご乱行」という記事が出て、売れていた『女工哀史』の印税がとしをに入らなくなり、藤森成吉らが作った「遺族会」が管理することになった、とあったが、巻末の斎藤美奈子の解説によると、藤森はとしをが自伝的記述を出した時に存命で、反論して、としをが『女工哀史』の印税を湯水のように使ってしまい、労働運動に用いようとしないので遺族会を作ったと言ったという。斎藤はこれに反論して、印税は当然としをがもらうべきものだ、と書いているが、法的にどうなのかはおいておくとして「湯水のように印税を使っていた」のは本当なのか、それが気になる。というのは高井としをという人は、頭は切れそうだが、何か危なっかしいところがあるからで、「ご乱行」の事実があったのか、は別問題として調べてしかるべきだろうと思った。

 シャールはフランス人らしく京都大学で研究し、同書は自分で日本語で書いたらしく、和辻哲郎文化賞を受賞している。生年は不明だが、2020年にストラスブール大学の准教授だから、1970年代の生まれだろう。和辻哲郎文化賞というのは、梅原猛山折哲雄が作った保守的な賞だから、受賞を聞いた時、おや?と思ったのだが、調べてみて分かった。これは『女工哀史』的な、マルクス主義的に女工はひたすら悲惨だったという言説に対するアンチテーゼ本なのである。だがそれは別に今初めて書かれたわけではなく、山本茂美のノンフィクションで映画化もされた「あ丶野麦峠」(1968)にすでに、貧しい農家の実家にいるより、製糸工場のほうが豊かな生活ができた、と書かれているのである。シャールも別に山本茂美を無視しているのではなく、さらに精密に、オーラルヒストリーとかライフヒストリーとかいった言葉を用いつつ細かに工女の生活を調べている。推薦文を書いているのが佐伯順子だったのは、どういう因縁かと思ったが、どうやらこの本は、マルクス主義だけがものの見方ではないぞ、という本として「和辻哲郎文化賞」に選ばれたらしく、それはちょっと嫌な気分にさせられたが、本そのものに悪いところがあるわけではない。私はマルクス主義者ではないが、そういう「構図」になるのは嫌である。

小谷野敦