最初に褒めてくれた人

その昔、私が阪大にいたころ、ある同僚ではない友人が、車谷長吉白洲正子をいつも褒めるのは、車谷が無名のころ白洲が褒めてくれたからだという話をした。

 そういう「最初に褒めた人への義理」というのは結構あって、筒井康隆は『ベトナム観光公社』を丸谷才一が褒めてくれたことがあるため、生涯丸谷に頭が上がらず、筒井らしくなく丸谷を褒め、擁護していた。金井美恵子は最初「愛の生活」で太宰治賞に応募したが、それは選考委員に石川淳がいたからで、作品は最終選考には残ったが受賞せず、佳作でも優秀作でもなかったが石川淳の熱い推薦のため『展望』に掲載され、金井はデビューしたため、金井はのちに石川淳が死んだあと、石川淳の小説はその後つまらないと思うようになったが、恩があるから言えなかったと言っていた。

 西村賢太なら、初期に褒めてくれたのは久世光彦だが、これは早くに死んだのであまり気にせずに済んだ。実は最初から褒めていたわけではない石原慎太郎を、最初から褒めていたかのように言って親しくしていた。大江健三郎なら最初に取り上げてくれたのは平野謙だが、これは『みずからわが涙をぬぐいたまう日』の誤読書評事件以来、距離ができてしまったが、平野が死んだ時は追悼文を書いている。

 谷崎潤一郎でさえ、初期に褒めてくれた永井荷風のことはかなり気に掛けていて、『つゆのあとさき』なんか絶賛したが、谷崎だけが褒めていたとも言われる。芥川龍之介を最初に褒めたのは、もちろん夏目漱石だし、川端康成を最初に褒めたかどうかはともかく、面倒を見てくれたのは菊池寛だ。泉鏡花を最初に認めたのは、まあ尾崎紅葉だろう。大正期になると、他の作家というより『中央公論』の滝田樗陰に認められるのが一番嬉しかったりもする。

 戦後になると、新人賞や芥川賞があるから、特に誰が誰を、ということは少なくなるが、大岡昇平小林秀雄の弟子筋だとか、深沢七郎正宗白鳥が褒めたとか、小川国夫が自費出版で出した『アポロンの島』は大して売れなかったが、買った島尾敏雄が数年後に新聞で絶賛して名があがったとか、大庭みな子の『三匹の蟹』は江藤淳が絶賛したとか、笙野頼子群像新人賞受賞は藤枝静男が泣いて頼んだからとか、新井素子を見出したのは星新一だとか、そういう逸話はある。田中康夫は、江藤淳が勘違いして絶賛したようなところがあった。フランス文学者だった福田和也を文藝評論家としてデビューさせたのも江藤だったが、これもややボタンのかけ違いめいたところがある。

 川端康成は、北条民雄岡本かの子を世に出した、名伯楽としての面もあり、大江健三郎大江賞を創設して若い作家に授与していたが、特に大江が見出したということはなかった気がする。それに対して、丸谷才一は、辻原登池澤夏樹など、目をかけた作家はどんどん賞をやって出世させた。多和田葉子奥泉光阿部和重などは、柄谷行人か「批評空間」グループが引き上げたような印象があるし、川上未映子は『早稲田文学』で渡部直己が見出したと自分で言っている。

小谷野敦