源流がダメということ

 私は以前、手塚治虫は苦手だなあ、と思っていた。永井豪の「デビルマン」や、石森章太郎の「サイボーグ009」は好きなのに、その源流である手塚は、嫌いではないが、あきたりないと感じていた。その後、図書館に講談社の全集があったのでぽつぽつ読んでいって、これはすごい才能だなあ、と思いつつ、結局永井豪や「サイボーグ009」が私の世代にフィットしたので、それより前の手塚が古くさく見えただけなんだろうなあと思っている。

 ところが近ごろ、小説の世界でも、これに似た現象が起き始めた。たとえば私は村田沙耶香の「コンビニ人間」を傑作だと思っているし、村田のそれ以外の、SFでない作をなかなか面白いと思っているのだが、村田が好きだったという星新一の本領であるショートショート類は受け付けない。『祖父・小金井良精の記』はみごとな伝記だったが、村田が好きだったのはこれではないだろう。

 あるいは、九段理江の『しをかくうま』や『東京都同情塔』は傑作だと思うが、九段が好きだというポール・オースターについては、それほど読んでいないが、村上春樹の亜流みたいな通俗小説だと思っている。

 しかし、好きな作家だからその源流まで好きになる必要はないので、近代日本文学の源流だといって誰もが二葉亭四迷を好きである必要はないのと同じだ、と考えるに至った。