音楽には物語がある(15)国民歌手・中島みゆき(1)中央公論2020年1月

 私が初めて中島みゆきの歌を聴いたのは、中学生の時、埼玉県越谷市の、かつての日光街道沿いにあった商店街で、すでに別の場所にイトーヨーカ堂ができたためその商店街はすたれつつあったのだが、中でもひときわ古めかしくて、今ではなくなってしまったフタバ書店という小さな書店で本を物色していた時に有線放送か何かで流れて来た「わかれうた」を聴いた時のことだった。私がそんな書店へ行くのは日曜日に違いなく、私にとって日曜の午後というのは、明日は学校だという憂鬱な時間帯であり、そこへ、あの独特の声で暗い歌を聴かされたから、うわこれはたまらん、いったいどういう歌なんだ、と思ったりもした。

 その後、特に私の周囲では何もなかったが、中島みゆきは静かに人気を獲得していたようで、大学生になって、文三で同じクラスだったSという男が、中島みゆきがいいいい、と言っていたし、一九八六年には新潮文庫で『中島みゆき ミラクル・アイランド』が、また詩人の天沢退二郎が『「中島みゆき」を求めて』を刊行するなど、評論の対象に格上げされた感があった。当時は私のような文学青年には、新潮文庫からこういうものが出るのはちょっとすごかったのである。

 ところで、このSが、中島みゆきがいいと言っていたのは、ある女性の影響だったことがあとで分かった。Sはその当時、私も知っている級友の紹介でお茶の水女子大の学生と交際しているつもりだったのだが、その人である。のちこの女性は大学院へ行って川端康成研究をし、高校の先生を長く務めたが、のち川端研究で私と知り合い、そのことが分かったのであった。

 私が初めて中島みゆきのCDを買ったのは大学院へ入った一九八七年ころで、ベストアルバムと「親愛なる者へ」であった。当時私は呉智英を愛読しており、呉も中島みゆきを崇拝し、天理教中山みきになぞらえたりしていたから、呉の影響は大きかった。だが、何度も聴いたわりに、「中島みゆきが好き」という境地には至らなかったし、どちらかというと脇で聴いていた母のほうが好きそうであった。

 「時代」という初期の代表曲があり、私は当時けっこう好きで聴いていたのだが、歌詞に疑問があり、今では確信になっているのだが「そんな時代もあった」といつか笑って話せる、というのは、山口百恵の「秋桜」(さだまさし)にも嫁入り前の娘に母がそんなことを言うところがあるのだが、そうかな? という思いは当時からあって、人間には、生涯、笑って話せるようになどならない苦痛というのはあるのであり、それは別に戦争とかいうレベルではなく、別れた恋人とか振られた相手とかでも、生涯言葉を交わせないなどということはざらではないか、と思った。それにこの歌は、ストーカーを勇気づけてしまうところがある。

 それと中島みゆきの歌の多くは、女の失恋や片思い、不遇を歌っている。戦後日本では、女の片思いは同情されるが、男のそれは同情されにくくなっており、その点でも時代に合っていたと言える。桜田淳子が歌った「しあわせ芝居」も中島みゆきだが、これは恋人同士だが連絡するのはいつも自分のほうと気づいてしまった女の悲しみである。ところで男だったらそんなことで悲しむだろうか。

 

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