上野千鶴子VS工藤美代子

 98年ころか、日本軍による朝鮮人従軍慰安婦の強制連行が問題になっていた時、軍の命令文書がないという指摘があり、上野千鶴子は『論座』で大月隆寛を批判して、文書史料で分からないところを口承・口碑で埋めていくのが民俗学ではないか、と書いた。当時私は、誰かが言ったことを無批判に受け入れるのが民俗学じゃあるまいと思った。マーガレット・ミードのようにまんまと騙された例だってある。

 それから十数年たって、工藤美代子は、ベースボールマガジン社の社長だった父・池田恒雄から聞いた話として、関東大震災の時に朝鮮人の蜂起計画があったと書いた。これも政府文書にはまったく記載がない。はからずも工藤が上野にしっぺ返しをくらわした形になった。

 だが結局は上野も工藤も間違っていた。しかし文書といえど、偽文書というのはあるわけだし、学問というのは、文書なら正しいとか口碑を信じろとかいうものではなく、総合的に蓋然性の高さを追及するもので、時には真偽不明わからない、ということがある。分からない、と言えない学者はダメな学者だということだけは確かだ。

小谷野敦