音楽には物語がある(25)ピンク・レディー(2)中央公論2020年12月号 

 

 ピンク・レディーのデビュー曲「ペッパー警部」は、奇妙な曲だ。題名と内容がずれているし、日本でなんでペッパーなのか。曽根史郎の「若いお巡りさん」へのアンサーソングだともいわれるが、当時「刑事コロンボ」や「刑事コジャック」がはやっていたし、「ピンク・レディー」から「ピンク・パンサー」のクルーゾー警部を連想したとも作詞の阿久悠は言っていたが、あるいは、日本ではあまり人気のなかった清涼飲料水「ドクターペッパー」のCMも関係していたかもしれない。阿久としては、この二人組の路線を模索していた状態だったといえようか。

 当時を知らない若い人にピンク・レディーの動画を見せると、こんな娼婦みたいなかっこうの二人組が歌っていて世間は非難しなかったのか、と言う。確かに、山本リンダの時は、「へそが出ている」とか言われたのに、ピンク・レディーの時は、時代が変わったと思われたのか、さして非難や批判の声はなかった気がする。エリカ・ジョングの『飛ぶのが怖い』が売れたりして、「飛んでる女」などというキャッチフレーズが流行したからでもあろうか。

 ミーとケイの二人組だが、当時から、ミーのほうが美人だと言われ、ケイのほうが、いかにも場末のキャバレーにでもいそうな感じだと思われていたが、「ピンク・レディ」のイメージを形成していたのはケイのほうだった。解散後、Mieと増田恵子として個別に活動をするようになったが、ケイのほうが印象が強く、大林宣彦の「ふたり」での岸部一徳の愛人役など印象に残る。中島みゆきが作った「すずめ」が単独でのデビュー曲だ。

 「UFO」の次に出した「サウスポー」(一九七八)も大ヒットとなった。野球ネタで、いわゆるおじさんの関心まで巻き込み、王貞治をモデルとした打者に、なぜか女性らしい投手と対決するというストーリーを投手側から描いたもので、「わたしピンクのサウスポー」という部分もある。私はこれは、前年集英社から翻訳が出たポール・R・ロスワイラーの小説『赤毛のサウスポー』に触発されているのではないかと思うのだが、阿久はそういうことは言っていないようだ。ところでこのポール・ロスワイラーという作家は、その後集英社で二冊翻訳が出ているが、生年もどういう作家かも不明である。

 「サウスポー」のヒットが、しかし、ピンク・レディーの頂点だった。歌手というのは、長くヒット曲を出し続けられるものではない。中島みゆきのように、シンガーソングライターといえど、四十年も最前線にい続けるというのは稀であるし、松田聖子のようにアイドル歌手であり続けるというのも稀有である。多くは演歌歌手が、石川さゆりのように初期のヒット曲を歌い続け、それで食っていけるという。あるいはいしだあゆみのように女優に転じて成功するか、さもなくば女性歌手なら山口百恵高田みずえのように結婚して引退する。男なら武田鉄矢のように俳優になる。

 「サウスポー」のあと、ピンク・レディーは四、五曲くらいのシングルを出して引退したような気がしていたが、実際には「モンスター」「透明人間」「カメレオン・アーミー」「ジパング」などのあと、阿久と都倉俊一も手を引いて、十一曲出して解散している。最後の曲だけ阿久と都倉が戻って作った。

 ピンク・レディーの解散発表が一九八〇年九月、十月には山口百恵のファイナル・コンサートがあり、八一年三月にピンク・レディの解散コンサートがあった。八〇年二月には松田聖子がデビューして一世を風靡するが、もはや、大人から子供までが口ずさむ歌謡曲の時代は、次第に終わりつつあった。次第に紅白歌合戦も、国民皆が知る流行歌がなくなって構成が難しくなり、歌謡曲という言葉もなくなってJ-POPなどというようになった。ピンク・レディーは、そういう時代の掉尾を飾る歌手だったのである。