開高健が死んだあと、親友だった谷沢永一は『回想 開高健』を書くが、そこで妻の詩人・牧羊子のことを、年上の牧が開高をたぶらかして童貞を奪って妊娠し、結婚に持ち込んだと書き、がんであることは開高に隠しておくことにしていたのに言ってしまい、開高から「オニ」と言われ、葬儀でもマスコミ対応を引き受けて傍若無人にふるまう女として描いた。あるいは、谷沢に詩集を送ってきて、あたし、読売文学賞がほしいの、と言ったということもどこかで書いていた。谷沢は読売文学賞の選考委員ではないのだが、推薦してくれということだろう。現に私のような者のところにまで、読売文学賞の推薦用紙が来る。
ところが、1983年の『別冊文藝春秋』に谷沢の「ガンバレ!ガンバレ!牧羊子」というエッセイが載っており、これは『年間ベスト・エッセイ集 午後おそい客』に入っている。これはしかし、別に牧羊子を応援するエッセイではなく、開高と牧が処女童貞で結ばれた日づけを確定して、彼らの同人誌『えんぴつ』の解散でうちあげ式をしたあと、開高と牧が姿を消したので、みなで、今日こそ牧は開高をものにするぞと言い、「ガンバレ!ガンバレ!牧羊子」と叫んだというなかなか品のないエッセイである。
開高はこの時のことを『耳の物語』に書いている。さてほどなく牧が妊娠し、開高の母が谷沢に相談に来た。だがどうしようもないと思った谷沢は、母親を怒らせて、開高らが結婚するにまかせた。それから三十年ほどして、開高の母を谷沢が訪ねると、初ちゃんやったからタケシの女房が勤まったんですわとしみじみ言いつつ、なんであの子の書くものはあんなすけべえなんでっしゃろ、と言った、というところで終わっている。
このエッセイ集には、産経新聞の永田照海の「伊吹武彦氏のこと」というのもあり、京大フランス語教授の伊吹が退官したあと、産経で匿名コラムを書いていた話である。中に、織田作之助が伊吹の教え子で、「それでも私は行く」を連載した時に伊吹を「山吹」の名で登場させたが、祇園の料亭へくりだすところで、新聞の誤植でそれが「伊吹」と本名になってしまって困って苦情を言ったら、翌日、「山吹教授がいたと書いたのは間違いで、教授は教え子の結婚式の仲人をしていて欠席だった」と書いたという話がある。そこは単行本版では「林檎の唄にかけてはかなりのうんちくのある山吹教授は、明日結婚式があるので欠席した。
山吹教授が結婚するのではない。山吹教授の媒酌する結婚式があるという意味だ。
山吹教授の林檎の唄がきけないというので代って島野二三夫が文若という一寸色っぽい芸者の三味線で唄っていた。」
となっている。なおこの小説の青空文庫版で「奇禍として」とあるのは全集の誤植であると青空文庫へメールしたのだがなしのつぶてである。もっとも冨田さんが生きていた時にメールした時も返事は遅かったような気がする。
(小谷野敦)