混同しやすい

 『私は猫ストーカー』という猫マニアのための環境ビデオみたいな退屈な映画を観ていたら、古書店で働いているヒロインに、青年が話しかけて「ルイス・シンクレアの『バビット』はありませんか」と言い、「シンクレア」について一席ぶつのだが、それを言うなら「シンクレア・ルイス」である。どうもアプトン・シンクレアと混同しているのではないかと思ったのだが、『バビット』はルイスのほうだし、アメリカ人で初めてノーベル文学賞をとったというのも、ルイスのことである。何しろこの青年、「シンクレア」はアメリカの真実を描いたから無視されている、と言うのだが、そう言いつつ、「シンクレア」はないだろう。
 筒井康隆アメリカ文学会で講演した時にこの二人を混同して「誰も指摘してくれないんだものなあ」と書いていた。年齢はアプトンのほうが九つ上でどっちも自然主義だから混同しやすいわけだが。

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『文藝別冊 開高健』で栗原さんが、開高のイメージがなぜぼやけているのかについて書いているのを立ち読みしてきたが、私には開高というのは、もともと大した作家ではないから、という愛想のない感想しかない。何しろ牧羊子を妊娠させてしまって仕方なく結婚したが牧は悪妻で、開高はためにうつ病になり、飛行機で海外へ行く段になると離陸と同時にうつ病が治るとか、谷沢永一が書いているから、牧と離婚する度胸がなかったのがいけなかったと思うし、あの太りようはまずいだろう。
 『北の国から』の最初の連続もので、五郎の「恋人」みたいだったスナックの女児島美ゆきが「あたし今開高健(けん)に狂ってるの」と言い、それまで文学書など読んだこともなかった五郎がこっそり開高を読むというシークエンスがあったが、あれはなんでだろう。当時『オーパ!』とかちょっと話題だったからか。
 『日本三文オペラ』の完成度は高いのだが、なんかノンフィクション作家のような人だった。あ、そういえばSFの名作10とかいうのをあげて筒井康隆が、なんちゅう素人ぶりだと怒って、挿絵を描いた山藤章二が開高ともつきあいがあるし、と困っていたっけ。  

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「独断」っていうのは、本来合議制で決めるべき時に一人で決めること、だと思ったから、なんで私が一人で書いた本について「独断」とか言われるのかよく分からなかったのだが、『岩波国語辞典』によると、正当な根拠なく断じること、ともあるからその意味か。
 ただなんかね、「独断」という語が濫発される背景には、「空気読め」的な大勢迎合が感じられるのだよね。